多様性を認めること
調和とは、多様性を認め合うことでもたらされるもの
今日10月1日に、新型コロナウイルスによる緊急事態宣言が全国的に解除されました。
私の住む、福岡県久留米市においても、これまでの規制が緩和されて、福岡コロナ警報という措置に移行されるそうです。
新型コロナウイルスの感染拡大によって、社会や経済だけでなく、これから私たち一人ひとりの価値観に大きな変化がもたらされることが考えられます。
この状況の中で、今までの世界や自分の在り方に疑問を持つ人が増えてきたり、その流れが加速していくのではないでしょうか。
ファスティング(断食)やベジタリアンやヴィーガン、手作りを重視した食生活、瞑想やヒーリングを重視したスピリチュアリティ、感情をコントロールするストイックな生き方。
年齢・性別・人種・国籍や、LGBT(レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダーをはじめとするセクシュアリティの総称)も、そう。
「多様性」がもたらす価値観とは、私たちが、ひとり一人が違うことを認め合いながら、等しく接していくなかで、それぞれの個性を調和していくものなのでしょう。
「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」
(新約聖書 ローマの信徒への手紙12章15節)
という言葉があります。
人を理解するということをする時、意見の押しつけや上からの目線での会話ではなく、大切なことは同じ目線で寄り添う共感の優しさであったり、
自分から見れば違うと思うことでも、相手がそれを望んでいるのなら思う通りにさせてみる、というおおらかさも必要なのだろうと思うのです。
人の心とは、分かりにくいものです。
ほとんどのことは、その人にしか分からない価値をもっている場合があるから、私たちは共感するということをするのでしょう。
「たくさんのものを愛することが、神を知る最良の道である」
(フィンセント・ファン・ゴッホ)
という言葉があります。
差別はいけないことと思いすぎれば、大切な個性も悪いこととしてしまうこともありますし、
人間は誰もが同じだという理念が先に立てば、現実を正確に見極めることをしなくなることもあります。
私だけが神に選ばれた者ではないのです。
人間はどのような人も同格だということは、人間が決めることではなく、神さまの認識なのです。
だから、同じように等しく神さまに愛されている人たちすべてに対して、私たちは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着ける必要があるのでしょう。
相手のすることが勘に触ったり、相手の外見を不潔だと思ったり、相手の態度の悪さに嫌な思いをしたりすることもあるでしょう。
でも、そういう場合でもなお、愛しているのと同様の態度を相手にとるべきなのです。
「行く先は決して場所などではなく、物事の新たな見方である」
(ヘンリー・ミラー)
という言葉があります。
自分の考えや判断が一番正しいのでもなく、何事にもより優れた考えと、より優れた判断が存在します。
まだまだ、自分の知っていることはわずかだし、自分が経験してきたことも足りないもの。
でも、私たちは自分の考えで判断したことが幸せを実現することだと思い込み、思い通りにならないと思い悩むもの。
そのように、自分には納得のできないことでも、今の自分には理解ができていないだけなのです。
より優れた考えによれば、それは意味があることで、より優れた判断によれば、それでよかったことなのです。
思い通りにならない時、理解できない時、不安や心配になった時、心を乱すことはないのです。
自分の考え方やものごとの見方の幅が広く深くなることで、これからの生き方や価値観が大きく変わる可能性がある。
調和するという言葉は、「共に生える、いっしょに育つ、共に成長する」というような意味なのだろうと思います。
つまり、私たちは、お互いを認めることによって、全く新たな生を生きることになるのです。
そうなれば、私たちが今見ている世界が変わる。
つまり、世界観が変わるのです。
今はわからなくてもいい。
違う結果でもいい。
いつかあなたにもわかる時がくるのです。
「この世に生を享けたものに、落ちこぼれなどあるはずはない。
すべては光る存在なのである。
これは天から授かったわたしの宇宙観である」
(板村真民)
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