遠慮と配慮
遠慮と配慮とは、正義を持ち合わせた思いやりであること
先日、福岡市から来られた方と、人間関係のなかでの正義と思いやりについて、お話しをさせていただきました。
この世界の社会や組織とは、人と人との関係によって成り立っていますから、そこには、人からどう見られるかばかりを気にしてしまう場合もあります。
相手と自分の関係に規律のようなものを感じながらも、どれだけ人を気づかうことができるのか。
その相反する二つの要素をあなたのなかで、どれだけ調和させることができるのか。
そこに、良好な人間関係を創るカギがある気がするのです。
私たち人間の調和のために、必要なもの。
それは、正義と思いやり。
自分の穏やかな生活を守るために、正義を主張することは大切ですが、それでも相手へのあたたかな思いやりは必要です。
相手の人生にダメージを与え、その人生から希望の光を奪い取ってしまうような、思いやりのない正義は、愛を欠いた正義ということになります。
正義を持ち合わせた思いやりとは、人の欠点をあげつらうのではなく、まず人を信じて包み込むこと。
その実践こそ、私は「遠慮」と「配慮」だと思うのです。
遠慮とは、ただ単に自分がやりたいことを我慢するという意味や、他者に対して、言葉や行動を控えめにすることでとらえがちですが、
本来は、遠い未来を考えるという意味で遠くを慮る(おもんばかる)と書きます。
それは、距離も時間も関係なく、今ここにある世界だけでなく、遠い世界や遠い未来を見据えて相手を思いやること、そして今するべき行動を見極めるということ。
配慮とは、皆にくばる「配」と、おもんばかる「慮」を合わせた、事情を踏まえた気づかいを周りに行き届かせる、という意味の言葉です。
それは、「謙虚」という言葉にも言い換えることができるでしょう。
謙虚にほんとうの自分を見つめることのできる人間は、他者を裁いたり、批判することにも興味がないでしょうから。
でも、謙虚であることと、自己を低く評価することは違います。
自分を低く評価しないということは、あなたができること、できないこと、それによる評価、そんなものに一喜一憂して生きないということ。
他者の意見を無視するのではなく、束縛されないということ。
「すべての人間は、他人のなかに鏡を持っている」(ショーペンハウアー)
という言葉があります。
人間は、他者の評価や反応によって自分を認識する生き物です。
そして、他者の評価によって形成される部分も多くあります。
それほど、人間は他者を意識する生き物なのです。
でも、他者からの評価を基準にしてしまうと、接する相手によって自分を演じ分けなければいけなくなり、本当の自分を出せなくなってしまいます。
これでは、自分の立ち位置がなくなってしまいます。
他者の目や評価に目をとめる前に、自分自身の本当の姿に着目し、その在り方が健全であるかどうかを吟味すること。
自己への執着を離れて、他者に関心を持つこと。
それが、これからのどのような人間関係でも求められることではないでしょうか。
この人は何を見ているのか、同じ視点になって、そこを理解すること。
つまり、「他者の目で見て、他者の耳で聞き、他者の心で感じること」(アルフレッド・アドラー)なのです。
正直に不器用に生きている人間がいます。
それは、見た目や行動はスマートではなくても、自分にも他者にも、神さまや良心に対しても誠実に生きている人のことです。
まず、自らが下座に降り、自分の手と足と身体を使って一生懸命に取り組んでいる姿を示すこと。
あなたが変われば、周りも変わる。
そして、この世界も変わるのです。
そのような人間は、きっと神の姿に近いのでしょうから。
「自分自身に対する誠実さと他人に対する優しさ、
すべてはこの二つに包括される」(孔子)
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