他者と私の関係
他者が教えてくれる、私という存在
先日、福岡県福岡市からスピリチュアルヒーリング・除霊・占いのセッションを受けに来られた方と、
「他者と私の関係」ということについてお話をさせていただきました。
私たちの社会にはいろんな価値観があります。
たとえば、電車の中で大声で話をしたり、道端に座り込んで食事をしたりすることについて、
「人に見られて恥ずかしくない行動をしなさい」という意見もあれば、「何をするかは本人の自由」という意見もあると思います。
ルールや法律で決められてはいないけれど、みんなが心の中で同じように共有しているマナーや道徳は、
なにか古くさいイメージがあるかもしれませんし、束縛するもののような感じがするかもしれません。
でも、私たち人間はひとりで生きているわけではないんです。
マナーや道徳は、いろんな人がいるなかでそれぞれが心地よく暮らすための知恵のようなもの。
それがあってこその、自分のやりたいことを実現する自由を求めたいですね。
逆に、私たちは誰かの目を気にするからこそ、自分を律することや、自分を正そうとするんだろう。
その姿勢は「建て前」という呼び方もできますが、恥ずかしくない自分でいようとする緊張感が、自分を高めてくれることもあるんです。
(自分を高めることについて、以前にもこちらの「自分の価値を高める」のなかでお話をさせていただきましたね)
「自然にひれ伏さなければ、
自然はその一番美しいところを見せてくれないと言った人があったが、
そのとおりだと思う。
物は見下ろすと欠点がよく見えるようだ。
見上げるようにすると長所が見えてくる。
見下ろして生きるのは不平不満の生き方。
見上げて生きるのは感謝の人生だと思う」
(帖佐美行)
という言葉があります。
たしかに、誰かの目を気にすることはわずらわしいですし、不自由なことかもしれません。
でも、私たち人間は弱い生き物ですから。
少しの不自由があるほうが、自律が保てることもあるんです。
そして、お互いの姿を見て切磋琢磨し合って、自分を磨くこともできるんです。
自分を見失う時、生き方がわからなくなる時は、誰かと関わることで「いつもの私」を思い出すことができたりする。
「新しい私」に気づくこともできたりするんです。
自分という存在は、自分の意志と行動で創られていくものだけど、
自分の存在を確認させてくれる他者がいることに感謝なんです。
「君は君
我は我也
されど仲よき」
(武者小路実篤)
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