不公平を受け入れる
誰もが向き合うべきものを与えられていること
先日、ヒーリング・除霊のセッションを受けに来られた方から、このようなご質問をいただきました。
「どうすれば、天国に行けますか」
キリスト教でも、仏教でも、善良に生きてきた人は天国や極楽に、悪行を重ねた人は地獄に行くとされています。
本当にそうであるのなら、その選別は神様によるものではなくて、私たちひとり一人の生き方によるものなのでしょう。
最初から神様に選ばれている人は、多くはいないのでしょうし、
すべての人間は神様の前では「同じ」であることは、私たちが決めることではなくて、神様が決めることだからです。
ですから、同じように平等に目を向けられている私たちは、誰に対しても自分と同じである考え方をもって、
慈しむことや謙虚であることや、柔らかく接することや、愛を与えることを実践することもできるはずです。
でも、すべての人に気持ちよく接することは難しいかもしれません。
相手の言葉や態度に、嫌な思いをすることもあるかもしれません。
あなたがしてあげたことに、相手から期待どおりの返事がないこともあるかもしれません。
でも、そういう場合でも、自分と同じであるという姿勢で接していくこと。
それは、人生の、この世界の不公平を受け入れることでもあるのでしょう。
「自分自身を信じてみるだけでいい。
きっと、生きる道が見えてくる」
(ゲーテ)
という言葉があります。
人間が生きていれば、時々は不運というものに出遭うこともあります。
人生が不運から始まるところから始まることもあります。
逆に、豊かに愛を与えられながら今まで育ってきた人もいます。
そのようにいろんな人達が同じ世界で関わり合って、人間関係を創っていく時に、不公平があることを私たちは知るのです。
そこで、自分と誰かを比べれば、どこまでも自分の足りないものを見つけてしまいます。
だから、ただ、自分と周りの人は同じではないことを知るだけでいいのです。
今世でも、ひとり一人に課題のようなものが用意されています。
乗り超えるべきものは、それぞれに与えられている宿命のようなものなのでしょう。
生きているうちで、辛いと思うのは不公平を感じる時でもあります。
でも、平等でないことが辛いのは、そこに「比較」があって、
まだ、自分は自分でいいという考え方を理解できていないから。
本当は、みんなが私と同じように苦しむのなら、私の苦しみが減るのではありません。
私だけが苦しんでいるのなら、私の苦しみが増すのでもありません。
「必然に喜んで従う者は、賢者にして、神を知る人」(ヒルティー)という言葉のとおり、
自分にとっての向き合うべきものが、自分らしく生きる道を見せることもありますから、
私たちはただ勇気を持って受け入れることが大切なことなのでしょう。
不公平も運命も受け入れる時に、私たちは幸せになれるものですから。
「人生はロマン。
自分は不幸だと悩むのではなく、
試練を与えられた物語の主人公だと思えば、
人生をエンジョイできる」
(美輪明宏)
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