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太陽に向かって両手を広げる人

毎年、子供の夏休みの始まる頃になると、故郷や、私がまだ幼かった頃のことをふと思い出します。

私たちのなかにある、故郷や過去の記憶は、手の届かないところにあるからこそ美しい側面があります。

美しい過去の記憶は、そのままで手をつけずにそっとしておきたいと思うのも、私たちの感情の働きだと私は思うのです。

中島みゆきさんの「誕生」という曲に、このような一節があります。

「ふりかえるひまもなく時は流れて 
 帰りたい場所がまたひとつずつ消えていく
 すがりたいだれかを失うたびに
 だれかを守りたい私になるの」

人間は意識をしなくても、心の奥底には幼少期の記憶や、住んでいた場所、そこで一緒に生きた人たちのことが眠っているもの。

どのような心の働きなのかは、はっきりとわかりませんが、故郷に帰りたい、あるいは墓参りをしたいという気持ちが湧き上がってくることがあります。

時々ふと、無性にそのように場所や人が懐かしくなることがあるのです。

けれども、それは過ぎ去ってしまった昔の話であり、どれだけ恋しく思っても、取り戻そうとしても、決して手にすることができないもの。

でも、そのような過去を取り戻せなくても、それを愛そうとすることはできるのです。

私たちはそうすることによって、自分が生きたということを、あるいは自分が生きてきた道程を、かみしめることができるのかもしれません。

人間は、死期が迫ると「過去へ戻っていく」といわれます。

昔を思い出す、過去を振り返るということが、そうなのでしょう。

それはライフレビューといって、過去を他者に語るという行為となって、精神的苦痛を緩和することにもなるそうです。

自分が生きた証を残したい。

これは多くの方が思う希望のようなものだと思います。

人生は自分の作品でもあるから、老いて自伝を書こうとすることも理解できる気がするのです。

生の意味の一つは、関係する誰かに、自分を残すことなのかもしれませんから。

スピリチュアルケアの村田理論というものがあります。

人間が、生きている意味を見出せず、魂の痛みを感じる状態(スピリチュアルペイン)におちいるのは、

・死を超えた将来の確信
・信頼できる家族・友人の存在
・自己決定できる自由

の三つのうち、一つ以上の要素が揺らぐためであるという理論です。

本当に生きるとはどういうことか。

私たち人間は、生まれたときから、必ず死ぬという遺伝子を持っています。

だから、私たちは生きるということを意識する時、

自身の身体がどうあっても、

周りの状況がどうあっても、

与えられている日々の価値をどうすれば高くすることができるか、ということを考えることが大切だと思うのです。

それには、私たちに与えられた命を感謝して、その与えられた命に対してどうお返しをするかを、いつも自分に問うていくことでないかと思います。

生きていると苦悩や障害と立ち向かうことから逃げることはできません。

でも、生きていれば、ささやかな幸せを感じることがあるのです。

食事がおいしいとか、誰かと会うのが楽しいとか。

生きるとは、死ぬとは、不思議なものだと思うのです。

善も悪も、光と闇も混在したものだから、一概にいいとかわるいとか言えないものなのです。

生きていることが単純に幸せで、死ぬことが単純に不幸なら、人の生涯は最後に不幸が来て終わることになってしまう。

だから、私たちには何らかの軸、死生観や人生観、人間観が必要なのでしょう。

生と死の意味とは、人の数だけ回答があることだから、あなたの一生にも必ず大きな意味があるのです。

ただ、ひたすらに生きること。

精一杯に生ききること。

そこに、きっと人生の意味を見るはずですから。

「毎日を生きなさい。
 今日、自分の人生が始まったかのように」
 (ゲーテ)

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