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祈りを捧げる人

最近は、ヒーラーというお志事や、ヒーリングや除霊といったセッションについて、認知度が高くなってきた感じがします。

私は、「ヒーラーです」と自己紹介をしていますが、そのように言っても驚かれなくなってきましたし、いろんなヒーリングされる方も見かけるようになりました。

「加持(仏と行者の行為が一体となること)とは如来の大悲と衆生の信心とをあらわす。
 仏日の影、衆生の心水に現ずるを加といい、行者の心水よく仏日を感ずるを持となづく」(弘法大師空海)

という言葉があります。

仏の光を受ける人の心が、その光の影を映す水のように澄みきっていなければならない。

そして、光を伝える役目をする行者の心も、また、平らかな鏡のような水面となっていなければいけない、という意味の言葉です。

人の心や体を浄化する不思議な力は、きっとそのような澄んだ心を通して発せられるものなのかもしれません。

でも、人を癒すという行為は、人間であるかぎり、誰にでもできることなのです。

自分の劣等感や自己否定感を満たすために、人を救おうとする心の状態を表す、メサイヤ症候群という言葉があります。

この言葉から、なんとなく、ネガティブな要素を持っている人は、癒しをしてはいけないような感覚になりますが、そうではないのです。

人の痛みが分かるからこそ、癒せることがあって、共に苦しむことも良しという境地にいたることで、寄り添うことができるのです。

自分を表現したい方が、自分のコンプレックスを糧にして創作するように、人を癒したいと願う方が、自分の傷を理解してヒーリングをすることに、私は人間としての美しさを感じるのです。

私たちのもつ美しさとは、完璧ではなくても、人の心を動かすもの。

人間に関わるものすべてが美しいと分かれば、人間もまた美しい存在であると気づきます。

考えずに見れば、この世のどんなものでも美しい姿になる。

そういう見方こそが、愛の眼の見方なのです。

愛とは、かばい、支える思想のもの。

「愛」が成り立つための条件として、周りの影響などによって膨らむばかりの自分の欲望を減らすこと。

他者に対する関心がなければ、「愛」は成立しないのです。

それはつまり、他人を幸せにしたいという思いを持つこと。

他者が見えない、他者が含まれていないという認識があるうちは、他者への配慮、そして「愛」は生まれてこないという根本的な法則があります。

私たちが世界を知ろうとする時に、最終的に行き着くのは愛に近い感情なのです。

あの困っている人たちは、「自分」なのです。

ただ困っている人がいるから、あなたは自分の立場で、自分ができることを、ただ行うだけなのです。

「その他のどんな戒めであっても、結局のところ、
 すべては『あなたの隣人を自分自身のように愛せよ』という、
 たった一つの戒めに帰結する。
 すべての戒めの目的は、人がこの愛にたどり着くことである。
 神が人に求めていることは、ひとがこの愛に生きることだ。
 愛は、ひたすらにその人の最善を願う心であり、決して害を与えない。
 ゆえに、愛こそが『完全な戒め』である。
 この愛に生きることこそ、
 人に対する神の要求を完全に全うする唯一の道なのだ」
 (ローマ人への手紙13章9~10節)

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