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朝焼けのなかの人

私の住んでいる福岡県久留米市においても、なかなかコロナウイルスが治まる様子が見えてこない現状です。

まだまだ、しばらく今の状況は変わらないかもしれませんが、私にできること、やるべきことをしていきます。

これからも、どうぞよろしくお願いいたします。

山頂から朝日を見る人

私たちの身体には、そのすべてに必要な要素が備わっています。

それは、肉体的な機能を含め、「喜怒哀楽」の感情の不安定な揺らぎもそうであって、喜びも悲しみも、嬉しさも怒りも、そのすべてがあなたの人生から意味を読み取るための大切な要素なのです。

だから、自分の感情をコントロールできることが、この世界をあなたのものとするための鍵となるはずです。

重荷や責任、同調圧力、義務感、日常のこと、固定観念という「事情」や、これはこうあるべきという「思い込み」は、誰もが持っています。

不条理なことに出遭った時、自己防衛として闘うということは簡単で楽ですが、だんだんと自分の心が怒りに慣れて、つらくなってきます。

人生に対して、大いに怒り、悲しむという態度は、私たちの心をすり減らしているだけなのです。

怒りの帳じりを自分で合わそうとするのではなく、間違っているとわかっていることを開き直りで行うことでもなく、その上で、自分に非がないとわかっていても、感情を抑えて、怒りの連鎖を止めることは、とても難しいことです。

でも、されたことと同じことはしない。

逆にゆるそうとすることで、清々しくなって、心にゆとりができて、新しい道を選んでいく。

そのような人間観や価値観を持ちたい。

夜景を見渡す人

「価値観が違う」という言い方をしますが、本当はその根底にある世界観が異なっているのです。

あなたの中にある物差しや基準を、見えるものに向けると、不平等を感じるのです。

「自分」を物差しにしていて、他人の言動に対してなかなか納得できないなら、ちょっとだけでも「相手」の物差しで考えてあげること。

だから、どんな人にも同じように、「永続的に与えられているもの」や「心を豊かにするもの」が、人間の価値の物差し・基準になれば、不平等というものは存在しなくなるはず。

そのような夢を求めていく。

綺麗な朝日を見る人

「回心」という言葉は、キリスト教では「かいしん」と読み、仏教では「えしん」と読みます。

つらいこと、避けたいことがあることで、それに立ち向かうことで、自分に新たなものが与えられて、人生観や価値観が変わるという意味を、どちらの教えも表しています。

不条理なことを受け入れることで、生きるべき自分の姿に気づくということ。

負のスパイラルから抜け出していく道を選択していくこと。

これからの習慣や言動を善くしていく姿。

それが、人間としての美しい姿なのだと思います。

夜空を見上げる人

自分のまわりにある物についてなら、知りたいことは知ることができますが、自分自身について知ることが難しいことはわかっています。

心と言動の相違によるジレンマは、肉体を持つ限り、消えることはないのかもしれません。

人間は、そのように不安定な存在なので、私のなかの深いところにいる自分は、善を喜んでいるのに、私の身体にはそれとは違うルールがある、とういうことがあるのです。

私がなすべき善いこととは、一体何だろうか。
私に求められていることとは、一体何だろうか。

それは、ただ公正なことをし、慈しむ心をもつこと。

信条の違いで裁き合うことではないのです。

いくら正しくあろうとしても、完全になることはできない身であるからこそ、私はどのような人間かということについて、自分の言葉と行動の中で明らかにしていきたいと思うのです。

「私も一緒です。
 自分の身ほど愛しい存在はない。
 同じように、他の者も自分が愛しい。
 それゆえ、
 他の者を慈しまないといけないのです」
 (ガウタマ・シッダールタ)

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