綺麗事で生きてみる
綺麗事で生きてみるという選択は、あなたの心の純度を高めていく。
先日、私のSNS投稿を見てくださった、とある雑誌の企画担当の方からご連絡をいただきました。
当雑誌に、サロンの掲載をしませんかというご提案のお話をいただきました。
今回、御縁はございませんでしたが、担当の〇〇さん、声をかけていただいて、とても嬉しかったです。
ありがとうございました。
ただ今、超自粛体制でヒーリングをさせていただいているなかで、昨日、ちょっと急ぎめのお客様がサロンに来られました。
〇〇さん、私もお会いできて嬉しかったです。
ためらいもあったと思いますが、いらしてくださって、ありがとうございました。
キリスト教の原罪(げんざい)という概念によると、人間は、誰もが罪を負って生まれてくるそうです。
仏教の業(ごう)という概念によると、罪とは人間の行いによって生まれるものだそうです。
「さるべき業縁のもよおさば いかなるふるまいをもすべし」(親鸞上人)という言葉のとおり、状況と条件次第で、善行も悪行も行うことができる、あらゆる可能性を秘めているのが人間です。
もし、心のなかに罪の記憶があるのなら、その罪は消すことはできませんが、償うことはできます。
大切なのは、過ちにとらわれて閉じこもらず、再び立ち上がること。
過去の過ちにとらわれて、今この時を惰性で生きる生き方はありません。
善を意識した善に気づき、悪を意識した悪に気づく時、心から回心しようと行動した時に、素の人間性が現れて、美しい人格というものがにじみ出てくるのです。
それは、罪を含めた、この世界で今まで得てきた多くの知識や固定観念、こうあるべきだという思い込みが外れた、心に垢(あか)のない真っさらな状態のこと。
心に貧しさのない、純粋な、心の純度の高い状態のことなのかもしれません。
私は今まで、汚いものをいっぱい見てきたので、今は綺麗事で生きています。
今、抱いている理想も、綺麗事で終わるのかもしれませんが、追いかければ楽しい寄り道が待っていることがすごく楽しみなのです。
道(生き方)がわからなくなったり、見えなくなる時もありますが、何事もやってみなければ、わかりません。
目指すものがあっても、不満や愚痴を言うばかりだったり、違う方向を向いていたり、私のなかの弱さはいろんな困難から逃げだそうとします。
でも、そのような弱くて足りない私の存在を認めてくれる、そのままでも愛してくれる存在があると気づく時、私は生きていられると感謝して、また「道」を歩みだせます。
逃げても背いても、運命に見捨てられることがなかったと振り返る時、言葉では言い表すことができない存在からの深い恵みと愛を感じるはずです。
どんな困難や悩みのなかにも、こんな悦びや充足感があることを、私も今あらためて知る毎日です。
「私の一生は
傷だらけであるが
この傷から
しみじみと手が
合わされるような
後光がさしてくる」
(榎本栄一)
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