柔軟に考えること
ものごとは変えない。見方を変える。
先日、ヒーリング・除霊のセッションを受けに来られた方と「執着」についてお話しをさせていただきました。
執着については、以前にこちらの「断捨離が生むもの」でもお話しをさせていただきましたね。
自分の能力を信じすぎることや、自分の考えに固執することを私たちは「こだわり」とか「確信」ととらえますが、
見方を変えれば「執着」ととらえることもできます。
どこまでがこだわりと確信で、どこからが執着となるのか、その境界を見つけるのは難しいのですが、
一つの基準は周りの人への配慮があるかどうか、なにか冷たい印象がないかどうか、だと思うのです。
どんなに素晴らしいことをしているとしても、どんなに優秀な人であるとしても、やはり人としての温かさは必要ですから。
その温かさとは、優しい言葉をかけることや気持ちに寄り添うことだけではなくて、相手のことを思いながら気遣う心のこと。
その気遣う心の見えないこだわりと確信には、執着を感じ取ることもあるのです。
「保存されるべきものはモノではない。
むしろそのやり方であり、企画を立てる方法であり、
出くわす問題に応じて再びやり直すことを可能にさせる柔軟な経験値である」
(ブルーノ・ムナーリ)
という言葉があります。
長く従事しているお仕事について、これが正しいとか、こうするべきだという信念を持って取り組むことは素晴らしいことです。
でも、その正しいことを唯一の正解だと思い続けることは視野を狭くしてしまうことになるのです。
年齢を重ねて、キャリアを積んだ人であるほど、自分の信じている正しさに客観的な目を向けてみること。
私たちの人生経験は、自らの経験を通して得られるうまくいったことと、うまくいかなかったことのパターンを記憶していくことですから、
こうすればうまくいった、この方法がベストだという成功体験があるほど、その方法に固執してしまうのです。
断捨離などの考え方もあるように、手に入れることの大切さと同じように捨てることの大切さというものもあるのです。
その手離すことの中には、持ち物もそうですし、自分が正しいと思うことや成功した体験も含まれます。
今の自分のやり方や考え方よりももっと良い方法があるかもしれないと謙虚に思って、固執しなければ、
これが絶対というものもないと分かります。
過去の経験から一方的に思い込んだり、未来を想像して恐れたりしない、
そのような価値観のフィルターを通さずにものごとをありのままに見ることも、その時にできるようになるのでしょう。
禅の言葉にこのような言葉があります。
「仏に逢うては仏を殺し、師に逢うては師を殺す」
相手が師匠であっても、師匠という肩書きで見るのではなくて、その人の人間性を見なさいという意味の言葉です。
このことを理解できれば、人間は誰もが同じであることも分かるのでしょう。
その時に、誰に対しても温かい接し方ができるようになるはず。
いろんなものと自分の間にある隔たりもないということも分かるから、柔軟にいろんな見方ができるようになるはずです。
「自分の内なるものも外なるものも、見ているものを変える必要はない。
ただ見方を変えればいいのだ」
(タデウス・ゴラス)
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