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浜辺で座る人

言葉によって表現されるもの、それはあなたの心のなかにあるもの

SNSやインターネットの普及によって、様々な表現の主張や発言がいろんなシーンで広く見られるようになりました。

私たちは、自分の外にあるものについては、しっかりと自分の意見を述べることができます。

でも、自分自身の内にあるもの、自分の価値については、はっきりと「こうです」と言うことは難しいものです。

もし、今まで使ってきた言葉や言い回しが、だんだんと目の前の現実を正確に表現できなくなっていることに気づいたなら、新しい表現を求めていくこと。

すべての思考や行動は、何もないところから突然発生するのではなく、日常の習慣に基づいているからです。

普段、なにげなく使っている言葉や、発想や行動の根底には、日々繰り返される生活が表れています。

そのなかで、自分を表現しながらさらに、言うべきことと言うべきでないことを見極める分別という知恵を学ぶ必要があると思うのです。

私たちを成長させることも、人生をつぶすこともできる力を持っているのが言葉だからです。

言葉とは、私たちの人格や生き方、人生も変えていくことができるものなのです。

朝日に照らされる人

「はじめに言葉があった。
 言葉は神であった。
 言葉によらずに成ったものはなにひとつなかった。
 言葉の内に命があった。
 命は人間を照らす光であった」
(新約聖書 ヨハネによる福音書1章1~4節)
という言葉があります。

言葉というものは、そこに心があってもなくても、発した瞬間から効力を発するもの。

言葉は人を生かすこともあるし、簡単に人を傷つけることもあるのです。

大切なことは、言葉というものの重みを感じること。

ギリシャ語では、「言葉」はロゴスといいます。

これは、論理を意味する言葉でもあり、人間の秩序や理性というとらえ方もできます。

この世界は不安で満たされているのではなく、人と人の信頼で成り立っている、それこそがこの世界の真理なのでしょう。

話をする友達たち

「どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。
 話すべきことは、そのとき示されるからです」
(新約聖書 マタイによる福音書10章19節)

という言葉があります。

私たちの心のなかにあるものを正確に言葉にすることは、簡単なことではありません。

さらに、それを人に伝えようとすると、いろいろと考えてしまいます。

でも、あれこれ悩んで紡ぎ出した言葉よりも、深く相手を思う情熱から湧き出る言葉のほうが、あなたの心のなかを純粋に表しているのです。

だから、何を話そうかと思いわずらうことはないのです。

大切なことは、誰もが本当は知らないことを知らないと言えることや、わからないことを正直にわからないと言えること。

知らないことは恥ずかしいことではなく、あなただけが違う意見を言うことも恐れることではありません。

自分の思い込みを外すこと。

素直に答えることで、きっと親しみを持たれるようになるのです。

両手を広げる人

「心に愛がなければ、どんなに美しい言葉も相手の心に響かない」(聖パウロ)

という言葉があります。

優しさを行なう難しさ、というものがあります。

他者に優しくするというのはなかなか難しいこと。

優しくしたつもりが、人を傷つけることもあるからです。

同じ言葉を語ったとしても、表情、声の調子、微妙な表現、あるいは言った人によって、どのように受け取られるかがまるで変ってしまうこともあるからです。

安易な慰めや励ましは、逆効果になったりすることもあります。

ただひたすら話を聞いているばかりでもダメな時もあります。

そこに、共感の優しさがなければならないのでしょう。

それを表すのは、静寂の中にやわらかい光があるような言葉、

そして、生きる勇気を与えるような言葉。

相手に対する見返りのない愛があってこそ、初めて自分の言葉、気持ちが伝わります。

そのような言葉を、私も与えられたい、そして必要とされる方々に与えていきたいと思います。

「わたしの詩は
 生きるために苦しみ
 生きるために悩み
 生きるために泣き
 生きるために
 さげすまされ
 はずかしめられても
 なお生きようとする
 そういう人たちにささげ
 そういう人たちに読んでもらう
 わたしの願の
 わたしの祈りの 
 かたまりであり 
 湧き水である」
(板村真民)

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