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夕日に照らされる人

苦しみ、困難の時をどう生きるか。

理不尽な出来事に出遭うと、なぜこんな目に遭うんだと、怒りの沼にはまってしまう事があります。

人間関係において、特にそのようなケースがあるのかもしれません。

でも、誰も最初から敵や友達だったわけではありません。

敵も味方も、自分の周りに対する接し方で決められているので、人のために行動する時に、私たちの行動は不思議といい方へと向かうのです。

なぜなら、優しさと愛と慈悲で心が満たされている時は、疑惑・欲望・憎しみ・嫉妬が入ってこれないからです。

そして、人から愛されて、人を愛する時に満たされた気持ちになり、人に怒りや憎しみを向けると居心地が悪いという心の反応が、同じ人間である誰にも備わっているのです。

周りの人に向かって、短絡的に利害を計算して発した言葉や行ったことが、わが身に染みてくる時があります。

そのような時、一時の感情にまかせず、何事も、自分の目線だけではなく、相手の立場に立って物事を考えることで、相手への負の感情も和らいでいくはずです。

自分を認めるように、人の存在を認めて、
自分の幸せを願うように、人の幸せを願う。

そのような心から、きっと新しいつながりが始まるはずです。

私たちの目は外を向いているので、外の物を見て気を取られることがあります。

たとえば、歳を重ねていくにつれて、「友情」「愛情」「仲間」といった事が軽くなって、「収入」「立場」「所有」が大事になります。

子供の時にはどうでもよかったことに、重きをおくようになる。

なにか、一番大切な事を忘れてしまったような気がしませんか。

人間が理想とする正しい道とは、生きにくい道なのかもしれません。

思いと行動が一致しないように、あまりに近すぎて見えないものは、自分自身の心です。

自分自身が迷う時、現実世界の波は揺れ動くからです。

物であったり、人の目だったり、「みんなと同じような形をとること」などの目先のことにとらわれずに、人を見る目で、自分自身を見つめてみること。

心がありのままの姿であれば、きっと穏やかな水辺のように澄んで静まるはずです。

過ちは、人間である限り、誰にでも起こります。
もちろん、私にもです。

「泥多ければ仏大なり」という言葉が仏教にあります。

泥の中から咲く蓮の花のように、苦しみや悩みの中にあってこそ、美しい人生の花を咲かせることができるという言葉です。

大切なことは、過ちを知って、必ず改めるということ。

それが、「生きながら何度でも生まれ変わることができる」という、人間だけが持つ美しさなのです。

皆さん一人一人が異なるものを持って、それぞれの人生を歩んでいる事を受け入れて、恥を知り、清らかさを求め、執着を捨て、人と一緒に涙を流せること。

それが人間として美しい姿、それを求める姿が聖ということなのです。

「つらさに叩きのめされそうになったら、善のために今なお働き続ける全ての人の事を強く信じるのです。
 彼らの謙虚な心には、新しい世界の種があるからです。
 生きなさい、愛しなさい、夢見なさい、信じなさい」
 (教皇フランシスコ)

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