スピリチュアルと悟り
スピリチュアルな生き方とは、「悟り」であること。
私のヒーリング・除霊の継続セッションを受けに、先月から久留米市の方が来られています。
お会いする度に、その方の表情や、感情の表し方がだんだんと軽く、気持ちの良い感じになられて、さらに余裕も出てこられているのを拝見して、私もとても嬉しい気持ちにさせていただいています。
ありがとうございます。
私がセッションのなかでお伝えしたい大切なことは、いつも「ちゃんと目を覚ましている」こと。
それは、「心の目を開いておく」「真理を悟る」と言う意味。
つまり、自分の人間性、本来の自分を見失わないということです。
「心の目を開いておく」とは、実体のない「感情」に振り回されないということ。
心というものが最初から存在しているのではないととらえるなら、
感情というものはいつも、対象物によって生じる、
対象物が心というものを引き起こしている、と分かります。
でも、この対象物とされるものも、心によって対象物とされるにすぎない。
心も物も、それ自体では存在していないと気づく時、あなたの視点がどこを向いているかが重要なことなのです。
「真理を悟る」とは「無分別な生き方をする」ということ。
それは、価値判断と相対的な思考をしないという意味の無分別。
ふだんの生活のおいて、私たちはいっときの感情に動かされて行動しています。
でも、無分別な生き方をすれば、ものの見方が変わり、目にする世界とは異なる世界で自由自在に生きる楽しさを味わえる。
誰に会っても、相手を人として見る、何を見ても、それを物として見ることで、そこに損得や比較も生まれないから、この世界を離れるのは当然のことになるのです。
「人間は、日常の動作や決断における努力によって、遺伝や環境に影響を与え、寿命すら変えることができる」(杉田玄白)
という言葉があります。
普段の一つ一つの生き方と行いが、私たちの心や人間性、身体を変えていきます。
ものに定まった形や性分などはないように、いつでも自分は変えられるのです。
人の性質は、変えようと思えばいくつになっても変えることができるから、
自分の頭で考えようとしない「安心」ではなく、自分の頭で考える「自由」を求めていくことです。
そのなかで、目にするものが、本当に自分にとって要るか要らないかを判断する自由というものがあります。
誰かが手にしているからとか、世間がそうしているからといって求めることはありません。
人間は、何かを手に入れたから、幸せになるのではない。
生き方が変わることで幸せになるのです。
「我々は一切をも所有していない。
大いに楽しく生きていこう。
光り輝く神々のように、喜びを食む者となろう」(ダンマパダ200)
という言葉があります。
便利さが身に付くと、それがない生活が考えられなくなり、捨てようと思っても捨てきれない、あさましい自分がそこにあります。
迷いの人生のなかで、「涅槃」つまり、心のやすらぎの境地を見出していくのです。
余分なものを抱えると懸念を生みます。
でも、捨てることを知れば、心配事も少なく、大らかに楽しく生きていけるもの。
すべてを捨てた人の足元は明るい。
世界をありのままに見る態度とは、余計な考えをすべて取りのぞき、受け入れること。
そのようにして世界を見ること、ありのままに見ることを「冷静」というのです。
「むなしいものを見ないように私の目をそらせ、あなたの道に私を生かしてください」(詩編119・37)
という言葉があります。
一時の楽しさに目を奪われていては、あなたの目指す真の安らぎからは遠くなります。
ビジネスでも家庭生活でも、問題を解決し、成果を得ようとするのならば、まずは現状をしっかりと認識すること。
そして、目先の利益に惑わされることなく、厳しくても心に定めた道を歩むこと。
その「勇気」を持つ人が、よりよい未来への第一歩を踏み出すことができるのでしょう。
何もかもが特別ではないから、何もかもをないがしろにするのではないのです。
むしろ、あらゆるものが自分となる。
あらゆるものがありがたくて、尊い存在となる。
スピリチュアルな生き方、つまり悟りとは、あなたの心をありのままに知ることです。
自分の心を自在に使いこなすことこそ、悟りへの第一歩です。
神のようになりたければ、神のように考えることから始めること。
そして、あなたの内にすでにある豊かさに気づくこと。
「神よ、
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ」
(ラインホールド・ニーバーの祈り)
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