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手をつなぐ子供たち

私には二人の妹がいて、それぞれ、離れた土地で家庭を持っています。

その妹たちが、母の日に、一人で生活しているお母さんに、みんなで寄せ書きした色紙を送ろうと計画してくれました。

私がまだ幼かった頃は、力強い母親だった「お母さん」も、私が家を出る頃には、同じ目の高さで、話をうなづきながら聞いてくれる「お母さん」になり、私が親になる頃には、私の問いかけに、身体の不調や寂しさを隠す「お母さん」になりました。

冷たくなった心をいつも暖めてくれたり、固くなった心をいつも柔らかくしてくれたことを覚えています。

私も、親の立場になってわかったことがあります。

それは、親は、自分が生きている間、子どもの心配をしなければならないと思っていること。

たとえ、親から見て、子どもが立派な大人に育ったように見えても、なのです。

でも、子どもを産み育てるのに費やした労力と金銭に比べることができないほどのこの安らぎは、まるで天が与えてくれているのではないかと感じるひと時です。

時が経って、成長した子や孫の姿を見ることは、人生の、これまでひたすらに行ってきたことの結果を確認するように映るのかもしれません。

「やってきたことは、正しかった」と。

親から受けた恩や愛情を想う時、頭に思い描く「愛」は、私たちのいちばん身近にある「愛」です。

でも、普段、私たちが何気なく口にしている「愛」と同じではないような気がするのです。

だから、その気持ちには、言葉は必要ないのかもしれません。

節目の感謝の言葉は照れくさくて、いつもふざけて伝えてしまいます。

私の結婚式の時、両親がいるから私が在り、私がいるから両親が在る、と思ったように、お互いに感謝できることの美しさも、時がたって、生活や立場が変われば、なかなか感じることができなくなります。

だから、「ありがとう」という言葉は、「有ることが難しい」ということで「有り難う」と書くのかもしれません。

昔、福山雅治さんがラジオで、玉置浩二さんの「純情」という曲の歌詞にふれて、こうおっしゃっていました。

「これは、書きたくても、なかなか書けない歌詞。かなり自分を追い込まないと書けない。僕もいつか、こんな歌詞を書けるようになるのが夢です」

世の中には、言葉だけでは伝えきれないものがあります。

でも、すべてを言わなくても、言葉が足りなくても、違う意味のことを話しても、長い時間を共にすごして、お互いを理解し合っている信頼関係があれば、自分の「心」は伝わるのです。

心から心へ伝えること。

かつて子供として過ごした一人の人間が親になって、責任ある者になっても、大人や高齢者になっても、その根底には子供の頃のアイデンティティ(私が私である要素)が残っています。

それは、命と一緒に愛情も受けたということを表しているのです。

いつかに受けた恩や愛情も過少にとらえず、当たり前と思わず、「有り難い」と思った感謝の心を、なにかのきっかけで少しずつ、大切な人に返していきたいと思います。

「持ち物が少なければ少ないほど、多く与えることができます。
 矛盾としか思えないでしょう。
 でもこれが愛の理論なのです」
 (マザー・テレサ)

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