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静かに読書をする人

私は、今までさまざまなことを望んで、その実現を目指してきた経験が何度もあります。

その中には、叶えられたことと、叶えられなかったことが当然ありましたが、

「もし神のおぼし召しがあるのなら」

そう思うことができたから、そのどちらにも私にとっては意味があるのだと、今は思えるのです。

求めるとは、そのまま叶うことではありません。

努力をしても、どうしても叶わなかったという経験が誰にもあります。

でも、そのことを人生のドラマと理解すれば、「学び」という宝を手に入れたことになるのでしょう。

お金で買える物と、お金を積んでも手に入らないものが人生にあることを知った。

この世界の大抵のことは、手段を選ばなければ自分の行動次第で叶えられることを知った。

それだけで十分ではないですか。

それを知った上で、神に求められている道を歩んでいけば、「日常の奇跡」や恵みをいただきながら、心豊かに生きていけると思うのです。

そして、望んだのだけれど、そうならなければならないで、また気楽であるという心の余裕も持っていたいと思うのです。

私たちは、自分のしたことから、どのような目に遭っても、ほうっておかれても仕方がないと思う時があります。

でも、たいていの人は、自分がしたこと以上に人にしてもらったり、いろんな形で守られるのです。

自分のした小さなことを褒めてもらい、幸運を喜んでもらう。

病気になれば、心配をしてもらう。

どん底の悲しみに落ちた私の胸を、支えるものはいつもあったと思える。

こういう光栄はすべて、自分の過ちや欠点とは関係なく、与えられているもの。

このような日常の奇跡はすべて、神から出ているのです。

私たちは、いつも自らの行いに釣り合わないほどの幸せにあずかっているということなのです。

人間が永遠に生きたいと願っても、生き続けることはできないように、生死というものも人間の自由になるようでいて、そのようにはならないもの。

つまり、私たちは何かに生かされているのです。

イスラム教の信者の方は、会話の所々に、このアラビア語の慣用句を付け加えるそうです。

「インシャアッラー(もしも神がそのようにお望みであれば)」

それはたとえば、「明日、12時にお伺いします、インシャアッラー」という使い方をされるそうです。

これでもし、12時に伺うことができなかったとしても、それは神の意志によって来られなかった、

人間の側には問題はなく、神があえてそう望まれていたからそうなった、となる。

これでは、いくらでも神さまのご都合を利用できることになると思ってしまいます。

でも、そうではなく、私たち人間はすべて神の手の中にあり、生かされて存在しているということ。

自分の存在のすべてを神にゆだねきった発想が、この慣用句にある気がするのです。

あなたは、自分に何かが欠けていると思ったことがありますか?

そして、その穴を埋めようとしたことがありますか?

そのような時もあると思います。

あなたの内側がどのようになっているか分からないから、外へ出て探そうとするのでしょう。

でも、探しものはあなた自身の中にあるから、

自分の存在を楽しむことができる時、あなたは神のように「欠けたものがない」と言えるのです。

神の側に立っていれば、人から何を言われても気にならないはずですから。

神の側に立っていれば、人に理解されないのは当たり前なんだと分かるはずですから。

こちら側から世界を見て、自分と違うな、ということが分かれば、もう、理解されなくても当たり前なのです。

「信じる者には、何の証明もいりません。
 信じない者には、どう証明しようにも
 証明しようがありません」
 (ジョン&リン セントクレアトーマス)

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