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草原にいる人

私たちは、運がいいことや、ついていることを望みます。

金運や良縁を願うこともそうですし、アイスキャンディーで当たりを引くことも、神社に参拝をした時に、おみくじで大吉を引くことも、嬉しいですよね。

運がいいこととは、私たちにとって日々の小さな幸せであって、それは神様が与えてくださるものなのかもしれません。

その証拠に、欲しがるのをやめると、求めるものが手に入るということがあります。

求めるものを簡単に手に入れることができる人は、激しく欲しがる人ではなく、穏やかで柔らかな笑顔で、自分に対しても何に対しても心を開いている人なのでしょう。

そして、私たちの方から与えてほしいと願うのではなく、神様のほうから与えたいと思われる人も、そのような方なのでしょう。

神様が助けてあげたいと思う人について、キリスト教では三種類の人を挙げています。

一つ目は、「小さき者」
二つ目は、「弱き者」
三つ目は、「損なくじをひく者」

「小さき者」とは、子供や幼い者のこと。

「弱き者」とは、社会的な弱者や病気の方のこと。

三つ目の「損なくじをひく者」とは、どういう人を指しているのでしょうか。

それは、ふつうならこんな選択はしないというようなことを、自ら選択する人のことなのです。

そのようなことができる人を、私は尊敬の眼差しで「しもべ」であると思いたいのです。

しもべとは「僕」と書きます。

僕というのは、へりくだった私という意味です。

ローマ法王は、いろいろな書類にサインをされる際、自分の名前を書くのではなく、「しもべの中のしもべ」と書くそうです。

そして、そのように考えて生活されています。

それは、よけいな思考や、振り回される感情を捨てて、ただただ自分の身体をまず動かす生活。

言われたことや出来事に対して、自分の判断基準や感情をもって向き合わない姿勢。

自分の感情や考えが入るとできないことがあります。

そうして行動したときには悪いことは起きないものです。

そのようなことを続けているうちに、何かが変わってきます。

そして、気づきます。

「ああ、なんとなくこんなふうによく回っているんだ」

なぜかというと、神様が助けてくださるようになるからです。

神様はどういう順番で人間を助けてくださるかというと、弱いもの順です。

小さい者、弱い者、損なくじを引いた者から、神様は助けてくれるのです。

「武道とは森羅万象を正しく産み守り育てる神の愛の力を、わが心身の内で鍛錬すること」
(大東流合気武術創始者 植芝盛平)

という言葉があります。

神様が何を愛し、人間をどう使われるかを知る時、私たちは自然に自分のなかに出てくる答えを認めざるを得ないのです。

でも、その使い方の意図を、私たちはなかなか見分けられないことが多いのです。

賢い人も愚かな人も、勇気のある人も臆病な人も、明るい人も暗い人もいるなかで、

美しいものや汚いもの、慈悲深いことも残忍なもの、誠と嘘、合理的なものや非合理的なものを通して、

私たちのなかで、神の愛の力が完成していくという不思議な事実。

悟りとは、あなたの心をありのままに知ることです。

真実の世界は形をもたないものですが、現実に現れるその姿から悟ることができるのです。

神や仏の力を信じて、その加護を願って祈ることを「信心」といいます。

それは、何かの宗教にはまることを言うのではなく、強く信じる心のこと。

それは、望んでいることについて、確かなこととして受け取ることであり、まだ見ぬことについて、確信すること。

あなたの努力が足りないとか、心掛けが悪いとか、ではないのです。

いつもの自分より、高い視点をもつこと。

神さまとの約束は、ペナルティーのない約束ですから、

人が神に受け入れられるのは、努力ではなく、これから与えられる恵みを信じる時なのです。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。
 わたしはあなたを愛している」
 (旧約聖書 イザヤ書 43章4節)

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