「学ぶ」という姿勢
先週末の三日間、神奈川県と新潟県から、お二人の方が私のヒーリングを学びに福岡県のサロンへ来てくださいました。
学ぶこと、究めることに対する真摯な姿勢が、とても素敵なお二人でした。
私も胸が熱くなって、とても満たされた3日間でした。
お会いできたご縁に感謝いたします。
人との出会いとは、旅のようなものだと私は思います。
旅先で、おいしい空気と食事を味わって、奇跡的な美しい風景に感動して感銘を受けるように、簡単ではないことをしようとする者同士が、自分の信念にしたがって行動をするなかで出会う人と、高い次元の調和を生み出すことができるのでしょう。
そして、しばらく再会することはないという離愁の心があれば、共にいる時間はさらに輝きを増して、学びの多い時間となるのでしょう。
「たとえ七歳の童子でも、私より優れている者には教えを乞おう。
たとえ百歳老翁といえども、私に劣る者には教えてやろう」
という言葉があります。
中国の唐の時代の高僧、趙州禅師が60歳の時に残した言葉です。
人はいくつになっても、どんな立場になっても、どのような人を目の前にしても、教えられる心、教える心を忘れてはならないということなのでしょう。
人からのアドバイスを受けとめ、自分の間違いをすぐに正そうとすることのできる人は、どんどん変わっていくし、状況も好転して、その人自身が成長していくものです。
私の「岡野式神気ヒーリング講座」は、茶席のように、一度そこに入ってしまえば、身分も立場もなくなって、みんなが平等の関係になる場所。
事情や利害関係や立場を捨てて、ただ人と人が向き合う場所。
ただ、その心持ちで私も臨ませていただいています。
「学んで時にこれを習う、亦(ま)たよろこばしからずや」(論語)
という言葉があります。
人間は好奇心によって外部から知識を取り入れても、まだその段階では自分のものになっていないのです。
逆に、取り入れたものに振り回されている状態になっていることもあります。
それが、繰り返し練習を重ねたり、経験を重ねていくと、ある時ふと、しっかりと自分のものになる瞬間が訪れる。
この時、学んだことに振り回されるのをやめて、学んだことが自分の中に染みてきて、私は主体性を回復する。
これが「習う」ということなのです。
学んだことを自分のものにするために努力を重ねていれば、ある時、ふと本当の意味での理解が起きて、自分自身のものになる。
そうなったときに、私たちは大きな喜びを感じるのです。
大切なことは、知っていることを「知っている」と認識し、知らないことを「知らない」と認識すること。
外にある新しい知識を自分のものとするために、いったん、今まで自分が「絶対」だと思っていた感覚を明け渡してみること。
学ぶときに利害を計算しないこと。
学ぶということは、何事にも動じない人間になろうとすることではなく、輝くような特別な存在になろうとすることも必要ではないのです。
私は、繊細で傷つきやすく、嫌なことが続けば気持ちがネガティブになる、どこにでもいる人間らしい人間。
それでいいと思うのです。
いつも同じ状態や、笑顔でいることなどできないのが人間だから。
自分を完璧にしようとすると、いつか、この世の価値の力を借りて勝負をすることになってしまう。
この世の価値とは、持てば持つほど重荷となって、自分の調子が崩れてしまうもの。
だから、人間は不完全なままがいいのです。
不完全であっても、自分を明らかにすることは、誰にでもできることなのです。
何かに夢中になる時は、自分に夢中になっている時。
私も、人に教えているようで、自分に教えていると気づいています。
それが、自分を明らかにすること。
その力を発揮できれば、これからの人生の向きが大きく、明るい方へと変わると思うのです。
そして、自分が幸せだと嬉しいのは当たり前として、
人の喜びが自分の喜びと思えるようになれば、
そう感じる人間だらけになれば、
この世界はすごい場所になりそうな気がする。
私はきっと、その「仲間」を増やすことを、今している最中なのでしょう。
「もし私が再びこの人生を繰り返さねばならないとしたら、
私の過ごしてきた生活を再び過ごしたい。
過去を悔まず、未来を恐れもしないから。」
(モンテーニュ)
〖3日間、私のところへヒーリングを学びに来てくださった、お二人の方へ〗
これから、慈悲の心が、愛の眼の見方が、
必ず、あなた達に必要な「つながり」と「恵み」を与えてくれますから。
あなた達は恐れずに善を行うこと。
疑わずに愛を伝えていくことです。
また、お会いする日を楽しみにしています。
ありがとうございました。
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