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夕日を見つめる人

先日、北九州市の平尾台の九州自然歩道を散策してきました。

木々と空と地面だけの景色がとても気持ちいい、大好きな場所です。

無心になって歩いていると、すべてのものが、自分の身体の一部として思ってしまうような感覚になってきます。

私の命とは、自ら生み出したものではなく、いただいた命、生かされている命。

そのような、無条件に「私」という存在が慈悲の心に包まれている安心感に包まれて生活するなかでこそ、生きている、健康である、手が動く、足で歩ける、目が見える、耳が聞こえる、というこの当たり前のことの中に幸せがあるということに気づくのかもしれません。

私のお仕事にも、コロナウイルスの影響はあります。

でも、時間ができれば、自分自身をゆっくりと見つめることができて、周りを見渡す余裕もさらにでてきます。

今、私を迷わせているのは、自力で解決できる悩みだけです。

不思議ですが、忙しいことを充実と思わなくなると、速度を上げるばかりが人生ではないと気づきます。

「一に止まる」と書いて「正」となるように、一旦、立ち止まって、もう一度立ち上がるために、自分を丁寧に見つめることが、時には正しいと思えることがあります。

人生では、自分の熱意や行動に関わらず、強制的に「一回休み」をさせられるときもあります。

いろんな出来事に、良い・悪い、得・損といった価値観や思いを上乗せして、悩み苦しんでしまうこともある「私」を、ちょっと休む時間をすごすこと。

外に向かって探し求めるのではなく、自分自身の中にある輝きこそ、大切にするべきこと。

そして、何気ない毎日の一つ一つを丁寧に生きることで、心が穏やかになります。

そのような生き方は、凛として、輝きを放つはずです。

いつかは死ぬということからも逃げ出せないように、今、生きていることからも逃げ出せません。

だから、何があっても逃げ出さない。

向かってくる現実を、できる限り回避することはしないこと。

何ごとも、起こる前から不安を先取りしないこと。

心が豊かであれば、豊かな感受性をもっていれば、きっとそこから生まれてくるものがあります。

もともと人生に道というものはなくて、あいまいな日常のなかで、未来に希望をもって理想や目標を見たときに、道が現れます。

答えがないのは人生も同じです。

これから、物から心の時代へと移る、「風の時代」になると言われています。

それをキャッチフレーズではなく、本当に深い意味で理解するならば、「物」というのは「欲」で、「心」というものは「欲を離れた心のやすらぎ」ということなのかもしれません。

風の時代になるということは、欲を離れた、心のやすらぎに人生の本当の価値を見出すことなのです。

自分の心は、自分がいちばんよく分かっています。

低きに流れず、易きに甘んじず、心がいつも真っさらに、みずみずしく在るように、私も明るい方を向いて生きます。

「楽しみて 善に赴(おもむ)け
 慎みて 悪にゆかざれ
 心して 良く振る舞えば
 今も未来も みな楽し」
 (法句経)

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