価値を感じる基準
私の内からわいてくる価値判断を正しさとすること
先日、ヒーリング・除霊・占いのセッションを受けに、福岡市からお母様と幼いお子様がご一緒に来られました。
お母様にヒーリングをしている時、その横でおとなしく遊んでいるお子様のしぐさや、感情を表そうとしている表情がとてもかわいらしくて、私も何度も話しかけていました。
「幼子の次第次第に知恵づきて、仏に遠くなるぞ悲しき」
(一休宗純)
という歌があります。
まだ何も知らない無垢の状態で生まれてしばらくの私たちは、感覚を頼りにこの世界を見ることをします。
いろんなことを経験して大人になって、感覚から思考を使ってこの世界を見ている私たちからすれば、
そのような幼いお子様の、まだ概念がない純粋さがとても愛らしく見えるのでしょうね。
でも、概念を覚えていくことは悪いことではないんです。
一度経験したことをデータとして、自分の中に積み上げて、それをものごとを判断する基準にすることこそ、私たちの身につけている概念ですから。
「運がいい人も運が悪い人もいない。
運がいいと思う人と、運が悪いと思う人がいるだけだ」
(中谷彰宏)
という言葉があります。
私たちは、いろんな経験を通してものごとを理解していきます。
「美しい、汚い」「正しい、正しくない」「偉い、偉くない」とか、いろんな区別を覚えていきます。
でも、それは何かと何かの関係や、比較をすることで成り立っている相対的な区別のことなんです。
たとえば、美しいものを美しいと見れば、その逆にあるものを見つけようとしますし、正しいと思うものを正しいと見れば、正しくないものを探そうとするように、
比べることで見つかる価値は、状況や時代の価値観が変われば同じように変わり続けるもの。
何と比べるかによってもその価値は変わりますから、それはあいまいで一時的なものでもあるんです。
(相対的な物の見方をしないということについて、以前にもこちらの「すべては私の善いもの」のなかでお話しをさせていただきましたね)
「聖人は無為でいる」
(老子)
という言葉があります。
「無為」とは「無いもしないこと」という意味。
つまり、余計なことは何もせずに、自然に振る舞うということ。
周りの価値観にとらわれて気持ちが焦る時は、何もしないこと。
誰かと自分を比べて、余計な想像をしないこと。
先入観だけでものごとを判断しないこと。
目にするものをその都度ジャッジするのではなくて、そのようにして在るものとして認めてあげることが大切なことなんです。
どんなことについても、その価値はあなたの内からわいてくる「好きかどうか」「楽しいかどうか」で決めていいんです。
その判断をあなたの「正しさ」としてください。
「小さなことが小さなことではない。
大きなことが大きなことではない。
それは、心一つだ」
(有島武郎)
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