生きる理由と生きる意味
あなたの本質が求めることを楽しむ
私たちは、人生が思い通りに進んでいる時も、つまづいている時も、このような疑問を持つことがあります。
私は、なぜ生まれてきたのか?
私のこの生には、どんな意味が在るのか?
お釈迦様は、この問いについて「無記」と答えられました。
つまり、何も答えがない。答えようがないということなのだそうです。
そもそも私たちがこの世界に来たのは、肉体を持たなければ体験できない学びを得るため。
その学びとは、損得などの利益を手に入れる「良いこと」よりも、良いことも悪いことも含めた、物事の本質を手に入れる「善いこと」を目指す姿勢のこと。
だから、私たちが生まれてくることに「理由」はないのでしょう。
そして、生まれた後で、自分で自分の生に「意味」をつけていくものなのでしょう。
現実の世界で、ものの在り方をとらえる時に、いろんなことを私のものとしたいという執着を外すために「無我」という見方をして、全体の中にある自分や俯瞰した自分を意識することがあります。
その「我」とは、欲や感情や身体や性格だけではない、心や魂までをも含めた、「私」という存在を表すもの。
私たちがこの世界に生まれてくる時、一組の両親のもとから約70兆の種類の子供が生まれる可能性があるそうですから、私が私として生まれてきたことは奇跡に近い、有り難いこと。
だから、私たちひとり一人は尊い存在だということなのです。
そのような私たちは、自分の人生のどのような困難を乗り越えることも、障害を取り除くこともできるはずです。
どのようなことも、私の人生だから私がなんとかすることができるのです。
誰かを大切にするように、自分を大切にして生きることも、私が生きた軌跡を残すこと。
そうして、私が生きた意味がみつかるのでしょう。
「おごらず、人と比べず、面白がって平気に生きなさい」
(樹木希林)
という言葉があります。
人生は、なるべく多くのことを経験して、いろんなことを味わう方が楽しいと思うのです。
誰にも得意なことと得意ではないことがあって、どんなに努力をしても結果の出ないことも、うまくいかないこともあります。
だから、全部をできなくてもいいのです。
誰にもひとり一人に、適した役割が必ずあります。
私ができることと、あなたができることも、まったく同じではないはずです。
そして、生まれた日や場所や、生きてきた環境も違います。
性格も人間関係も、経験してきたことも。
でも、心のいちばん奥にある本質の部分は変わりません。
だから、あなたの本質のところが求める、あなたにふさわしいものを見つけるために、たくさんのことを経験してください。
それが、あなたの好きなことでもいいですし、得意なことでもいいのです。
ひょっとしたら、嫌なことや出来ないと思っていたことでも、やってみると楽しかったり、うまくいくような新しい展開に出会うかもしれませんから。
あなたがやりたいと思うことは、やってみないであきらめるのではなくて、やってみて出来なくてあきらめる態度で臨んでください。
すべてが次に繋がっていきます。
いちばん大切なことは、それがあなたが自分の人生で活躍できることであれば、いいのです。
「人生はいたって単純。
競争なんて本当は存在しないし、
勝たなきゃいけないレースもない」
(スザンヌ・サマーズ)
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