分かち合いと愛
私たちの喜びの一つは、人と分かち合うことで得られるもの
私たちが日常で使っている「シェア」という言葉は、一つのことをみんなで共有することや分かち合うことを言います。
人と人のつながりは社会をつくったり、私たちの心に幸福感をもたらしてくれるもの。
先日、福岡県筑後市から来られた方とお話をさせていただくなかで、私もあらためてそのことに気づかせていただきました。
ありがとうございました。
マザー・テレサさんの残された言葉に、このような言葉があります。
「You did it to me.(あなたが私にしてくれた)」(マザー・テレサ)
私がさせていただいているヒーリングは、神様や高次元からのエネルギーを自分の身体を通して、相手に送っていく「癒し」です。
でも、ヒーリングをする時、エネルギーを送られた方だけが癒されるのではなく、癒しているヒーラー自身も癒されています。
それは、エネルギーを私とあなたでシェアしている「分かち合い」の状態が生まれているからなのです。
私が癒すのではなく、私が癒されるということ。
私は、ヒーリングを通して、この言葉の意味を理解出来ました。
「愛があるところに人生がある」
(マハトマ・ガンディー)
という言葉があります。
私たちは、自分に都合のよい時にしか、人を助けることができないのでしょうか?
自分が優越感を感じるために施しをするのでしょうか?
自分が孤独で寂しいから、かわいそうな人と友達になろうとするのでしょうか?
条件や環境が変わったとたんに、差しのべていた手を引っ込めるのでしたら、それは施しではないのです。
誰かの哀しみや苦しみに寄りそう時、あなたのしたい事ではなく、相手が望んでいる事をしてあげること。
優しさにエゴイズム(利己主義)は必要ないのです。
勇気を出して、相手の目線で手助けをすること。
「自分が幸せになりたいと思うなら、人を幸せにすることだ。
人を幸せにしない限り、自分の幸せはあり得ない」(お釈迦さま)
という言葉があります。
自己の欲望にこだわるほど、他人とわかち合うことから遠ざかるものです。
そこには、他者を思いやる前に、自分の身や持っているものを守ろうとする考えがあるからです。
でも、私たちの所有しているものが、いざという時に自分や家族を守らないのだとしたら、それを持っていることや、それを手に入れるための苦労はどんな意味があるのでしょうか。
私たちは死ぬ時には、何もその手に携えていくことはできないし、この世に生まれ出てきた時と同じようにして去っていきます。
豊かであることも、貧しいということも、どちらであっても分かち合うことはできます。
どちらであっても、他者のために何かをするということの大切さを感じることはできるのです。
その人を理解するために、ちょっと自分を犠牲にしてみる。
自分自身も同じ環境に置いてみる。
それに気がつくことこそが愛の原点であって、そこに互いにわかち合う喜び、人間としての幸せがあるはずです。
「愛するとは、自分の幸せを相手の幸せに重ねることである」
(ゴットフリート・ライプニッツ)
という言葉があります。
私たち人間は、自分のものを誰かに「与える」ことができます。
そして、誰かから「受けとる」ことができます。
それは、食べ物やお金、仕事や大切にしているもの、愛もそうです。
どちらの側にとっても、それは大きな喜びとなるものです。
そこに、思いやりや愛の感じられる交わりがあるからです。
持っているものが少なくても、上を向くことができなくても、
分かち合うことでこんなに豊かな気持ちになれるように、私たちは創られているのです。
もし、今あなたが人を愛することについて、気持ちを表現することや受け入れることにおっくうになっているのなら、
あなたの側にいる人と分かち合うことから始めてみませんか。
難しいことはありません。
目の前の方に微笑むこと、話をゆっくり聞いてあげること。
これだけで、あなたと目の前の方の寂しさはなくなるのです。
「第一、愛は言葉よりも行いによって示すべきである。
第二、愛は両者の交換にある。
すなわち、愛する人が持つものを、または、愛する人が持つもののうち、
自分に可能なものから愛される人に分け与え、
一方、愛される人も、愛する人に対して同じくするところに愛がある。
したがって、どちらかが知識を持つならば、名誉や富に関しても同様にし、
相手も他方に対して同じくする」
(聖イグナティウス・ロヨラ「愛を得るための観想」)
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