人間関係に疲れないこと
いろんな方とお話をさせていただくなかで、「人間関係」についてのご相談をいただくことがあります。
職場や、プライベートを含めた、すべての人間と人間の関係性について、誰もが想うところがあります。
人間は、その時その時の目先の状況や関係性、集団の考えによって、いい人にも悪い人にもなることができるのですが、実は、だいたい、みんな同じなのです。
もし、今、あなたが独りよがりな世界のなかで、自ら周囲に対して溝を作っているのなら、
「どんなに綺麗に装っても、やっていることや、できることに関係なく、なにもやっていない時にも変わらない、ありのままの偏らない本当の自分」
という姿が、あなたの心の奥にあるとして、
それは、「絶対に他人から受けいれられるという性質をもった人間の本当の姿」
だと信じるところから始めていきませんか。
曹洞宗に「四摂法」という教えがあります。
布施(施すこと)
愛語(愛のある言葉をかけること)
利行(人のために行うこと)
同事(他人と協力すること)
それは、自分の立場があっても、相手と同じ立ち位置になって協調する心のことで、自己犠牲ではない、人への配慮のことです。
同じように、キリスト教の新約聖書にも、このような言葉があります。
「あなた自身を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」(マタイによる福音書22章37~39節)
「私」と「他人」を同じにとらえて愛すること。
これは、この世のいろいろな状況で使えるシンプルなルールのように思えますが、自分自身を愛していないと、隣人を自分と同じ対等のものだと見るのは、難しいことです。
人を愛して自分を憎むことはできませんし、自分自身を愛していて人を憎むこともできないからです。
だから、自分自身を愛するのを学ぶことと、人を愛するのを学ぶことは、同時進行なのです。
人に対する感情は、自分自身に対する感情を鏡に映しているにすぎません。
人との関わり合いは、あなたが自分自身のなかの「何か」を赦さなければならないかを見せてくれる、あなたのためのものなのです。
人のために何かしようとした時に、逆に、自分が学んだり、何かを得ているということに気づきます。
目の前の人が救われると、自分もいい気持ちになれるのは、「あなたの喜び」が「私の喜び」でもあるからです。
人間は、いくら正しくあろうとしても、完全になることはできない。
私たちにできることは、ただ「公正」なことをして、慈しむ心をもつこと。
あの困っている人たちは、自分だと思えたなら、ただ困っている人がいるから、自分ができることをするだけなのです。
「自己愛」を理解した自分から、さらに「利他愛」の自分へ変わっていくことを心に決める瞬間が、誰にもあって、それはあなたにとっての「生きながらもう一度、生まれ変わる」転換期なのだと思います。
だから、明るい人や暗い人、嬉しいことやつらいこと、すべてのものに丁寧に心を向けること。
偏見の目で人と接しないこと。
慈悲の心で人と接すること。
「優しい」という字は、人偏に憂いと書きます。
悲しみや苦しみの中にいる人から逃げないで、その側に寄り添う姿。
それを「優しい人」の姿と表しているのだと思います。
「特別な者」になる必要はありません。
ただ、「誰かの何か」になれればいいんです。
私も、そう思いますよ。
「澄んだ眼の奥にある
深い憂いのわかる人間になろう
重い悲しみの見える眼を持とう」
(相田みつを)
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