いただいた「恵み」
私たちがいただいた恵みとは、苦難でもあり、幸福でもあるということ。
10数年前、北九州市に住んでいた時、キリスト教の牧師さんにとても支えていただきました。
その牧師さんは、ゆくゆくは失明する病を患っていました。
そのことについて、
「神がなぜ私の目を見えなくさせるのか、なにか意味があると思うんです」
と、常々おっしゃっていました。
当時、闘病中で仕事への復帰を急ぐ、失業中の私に、私の0才の息子の顔を見ながら一言、アドバイスをくれました。
「せっかく病気になったんですから、そのような生き方をこれからしたらどうですか?」
それから10年が経って、やっとその言葉に沿う行き方を理解できた気がします。
私も大病を患ったそのおかげで、それまで知り合えなかった世界の方々とご縁を結べて、気づかなかったことに気づかせていただくことができました。
自分の傷を大事にすること。
私が苦しみから救われたのではなく、苦しみが私を救ったこと。
このような病気の仕方ができたので、逆に病気を財産ととらえることもできました。
人は、人生の所々で試練に遭遇します。
その困難や苦しみを、「受難」と呼びます。
その時は、ただつらいと思っていたことも、月日が経って、振り返るときに、あの受難があったからこそ、今の私が在る。
ふと、そう思う日がやってきます。
そう思えたときに、それはもう苦しい思い出ではなく、「恵み」となるのです。
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(伝道者の書3章11節)という言葉があります。
その言葉のとおり、どんな出来事も、それがその人にとって必要な経験として、必要な時を選んで起こるのです。
避けたいと思っていたことに対して、逆にそれがあるからこそ、自分にはそれに立ち向かうエネルギーが湧いてくることがあります。
幸福をいただいたという感謝の気持ちがあれば、不幸もいただこうという満たされた気持ちも湧いてきます。
そこに、人間が悩み苦しみながらも生きる理由があるのです。
私が持っているものを、自分で獲得したのではなく、すべては「与えられたもの」、自分の身体でさえ「預かっているもの」ととらえられれば、自分を強く見せる必要もなく、誰よりも優れていると自慢をすることもありません。
いつか、この地上での人生を終えた時、審判というものがあるとすれば、私のしてきたことのほかに、与えられたものをどのように扱ってきたかを評価されるのかもしれません。
どんなに崇高な理念も、どれほどすばらしい人生観も、実際に体験しなければ、そこには到達できません。
本質的なもの、「智慧」とは、表面的な知識や頭がいいということではないのです。
だから、私たちは考えすぎず、ただひたすらに目の前のことを丁寧に、懸命に生きるだけなのかもしれませんね。
何を心にかけるべきなのか、どこに重きをおいて生きればいいのかを知っていて、本当に大切なもの、本当の愛、なぜ生きているのかをわかっている人。
そんな智慧のある人に、私もなりたいです。
「病が
また一つの世界を
ひらいてくれた
桃 咲く」
(坂村真民)
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