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草原で花を摘む人

怒りは拒絶するのではなく、コントロールするもの

私たちは、嬉しい、楽しい、悲しい、辛いなど、いろんな感情を使いながら、目にする出来事や誰かの言葉を解釈して生きています。

そのなかで、怒りという感情は特に避けるべきものとしてとらえられています。

そもそも、私たちはなぜ怒るのでしょうか。

例えば、順番を待って並んでいる時に、誰かが自分の前に割り込んで来た時、

悪事を行った人に罰を与えたいという気持ちが湧いた時、

など、誰かが自分に失礼なことをしたと感じた時が怒りを感じる時なのかもしれません。

でも、その出来事が本当に自分にとって怒りを感じる価値のあるものだったのかどうかを、今、思い出してほしいのです。

怒りの源にある、プライドや威厳やうぬぼれはその時のあなたが持っていたものだから、今のあなたは冷静にその出来事をとらえることができるはずです。

「人を怒らば我もまた
 人の怒りを受けつべし
 怒り怒られ
 打ちつ打たれつ
 いずれかは身の仇(あだ)ならぬ」(法句経)

という言葉があります。

あなたに起きてきた出来事に対して、あなたがどのような反応をしたのかも、とても大切なこと。

怒りは、もともと絶望や絶体絶命の状況を乗り越えるために備えられているものですから、

いろんな感情のなかで最も激しく衝動的で、方向転換をするのが難しいもの。

だから、状況の判断を短絡的に怒りにまかせないことです。

人間らしさの感じられない欲望や、他者を傷つけようとようとする正義は、自分の幸福まで奪っていくこともあります。

表情をまったく変えずに、胸の奥にある感情を表すことはできません。

だから、怒りの感情との付き合い方には注意が必要なのです。

「この体 鬼と仏と あい住める」(詠み人知らず)
という言葉があります。

状況と条件次第では、どんな善行も、どんな悪行もやってのけることのできるあらゆる可能性を秘めているのが私たち人間なのでしょう。

もし、怒りが何かの役に立つのなら、その強いエネルギーを利用したいと思いませんか。

怒りは、気持ちをたかぶらせて、勇気を超えた行動力を与えてくれます。

だから、怒りを避けるのではなく、あふれてしまわないようにうまく抑えながら、健全な方向へ向かわせること。

それができれば、私たちの行動は力強く、気力とエネルギーに満ちた表現も可能になるのです。

理性が私たちを制している時は、感情から距離をおいている時なのかもしれません。

それは、怒りだけではなく、愛や、その他の勘定についても同じこと。

正しい方へ向かう意識をどこかで持っていなければ、人間は感情に身をまかせていく性質があるのかもしれません。

そのことを理解して生きる時、健全にものごとを見る視点を手に入れることができるはずです。

善いとか、悪いとかではなく、ただ自分にふさわしい行動を、恐れずに動揺せずに行っていく。

感情や利己的な欲望などの一時的なものではなく、あなたの中から長く続くものとなる強さと善良さを、あなたの軸に据えて進んでいきましょう。

「我々は皆、悪い人間のなかで生きている悪い人間にすぎないのだから、
 私たちに平和をもたらすのはただ一つ、
 お互いに寛大になると約束することだけだ」(セネカ)

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