思いやりの心とは
思いやりとは、「おたがいさま」の心から生まれるもの
東京2020オリンピック・パラリンピックを裏方で支えているボランティアの方々へ、各国の代表選手や長期滞在している海外の記者の方々から、とても多くの感謝の言葉が送られているそうです。
オリンピックの根本原則として、「いかなる差別をも伴うことなく、友情、連帯、フェアプレーの精神をもって相互に理解しあう・・・」という一節がありますが、
まさにこれを、日本で実践されている方々がいらっしゃることを、私もとても嬉しく思います。
「私が私を捨てれば、そこにあなたがいる。あなたがあなたを捨てれば、そこに私がいる」(山本紹之介)
という言葉があります。
私たちは、自分が傷つくのがいやだから、自分が傷つかない生き方を選ぶことがあると思います。
でもそれが、他者との接触をできるだけ少なくすることになるのなら、悲しいことではないでしょうか。
では逆に、もし、私がこの人と同じ「心」と「人生」を持っていたら、と考えてみる。
そうすれば、この人の気持ちと行動が理解できるはずです。
自分と同じ年齢で、同じ家庭環境で育ち、同じ仲間と興味があることを楽しんでいたら、と考えてみる。
そうすれば、私もどのような行動をとるか、理解できるはずです。
そのような態度を「共感」と呼びます。
それは、意見に対する同意や同調ではなく、他者に寄り添うことなのです。
不都合なことを切り捨てていくだけだったら、残るのは悲しい気持ちだけ。
大切なことは、排除するのではなく、受け入れることなのです。
「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」
(新約聖書 マタイによる福音書7章12節)
献身とは、慈善的な行いや道徳にかなった行いだけではなく、
人が本当に思いやりをもって行ったことのすべてを呼びます。
私たちは、大切に想っている人によいものを与えたいと思う。
神さまが私たちにそう想っているように、です。
この言葉は、誰にでも自分の大切に想っている人にするように、他者にもしてあげなさいということなのでしょう。
そう思えば、自然と私たちは、他者に望むことをしてあげることができるようになるはずです。
他者の喜びを考えること。
人に与えれば、それによって後々に自分が利益を得る、と計算することは違うのです。
あくまで、その分と同じほどの埋め合わせを、忘れたころに与えられるということなのです。
今の時代、強い人が弱い人を支えていくことは、社会的な発展の邪魔をするものと思われているかもしれません。
でも、社会のほんとうの平等は、自分に不利があるとしても、受け入れることを認めることから始まっていく。
少し冷静に考えれば、自分もどれほど周りの人たちにゆるされているか、ということに気づくはずです。
きっと、お互い様なのです。
私は、生かされている。皆からゆるされ、支えられて生きている。
そのことに気づくことができれば、あとは相手をゆるすだけです。
しかも、無条件で受け入れ、ゆるし続けるのです。
きっとその時、あなたのなかにあったいらだちは消えているでしょう。
愛の視点とは、どこまでも人をゆるし続けることなのです。
「一日一日を始める最良の方法は、目覚めの際に、今日は少なくとも一人の人間に、ひとつの喜びを与えることができないだろうかと、考えることである」
(ニーチェ)。
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