誠実な人とは
あなたに備わっている「誠実さ」とは、どのようなものにも、誰に対しても中庸であるという「在り方」のこと
最近は、昔には想像できなかったほどの価値観をきっかけにした出来事を、ニュースで拝見します。
その事から、私たちはどれだけのことを成しえたか、ということをこの世の価値として周りから評価されながらも、
それに加えて、どのような姿勢で取り組んでいるかという「在り方」を見えない世界からの価値として求められている気がするのです。
これからは、何を知っているかよりも、何を行ったかのほうが重要になり、知性の限界を超えた感性で生きる時代となるのでしょう。
一見、それは生きづらさや慎重さを必要とされることのように思えるのですが、実はそうではなく、ただひとつのものを心に留めておけばいいのです。
それは、「誠実」というもの。
人間の持っている資質でもあり、美徳でもある「誠実さ」に従った生き方、
それを私は大切にしたいと思うのです。
「誠実に生きるとき、人生において恐れるものはない」(トルストイ)
という言葉があります。
誠実であるということは、自分自身に対しても素直に向き合うことでもあります。
自分の傷としっかり向き合う時、自分の傷に対して自分で愛を与えるという、新しい形の自己責任を自分に向けること。
そのなかで、実は、自分自身がどれほど自己を嫌悪しているかということに気づくことができれば、自分の感情を、自分の身体のように貴ぶこともできるのです。
なぜなら、私が感情を抱くことができるのは、私に身体があるから。
私に身体がなかったら、感情もないのです。
感情に振り回されても、身体を大切にしなければ、私たちは生きてはいけない。
わが身を大切にすることがすべての始まりなのです。
自分の命を大切にするのにお金もかかりません。
自分を大切にすること。
何をするにも、そこが私たちの出発点です。
「益はなくとも、意味がある」(晏子)
という言葉があります。
大切なことは、見返りの見えないことに対して、どれだけ真剣に取り組めるか。
この頃では、利益がなければ取り組む意味がないという考え方の価値観が多いと思いのかもしれません。
でも、一人でも多くの人が、見返りばかりを求めずに、努力そのものに意味を見出せるようになれば、世の中はもっとおだやかになるはずです。
誠実とは、どんな出来事に対しても、誰に対しても平等であり、中庸であること。
だから、誠実な人とは、裏表もなく、苦しい選択を迫られても、それを平然と受けて立っている人。
自分には、この人に親切にする何の理由もないと思う相手にでも、その人のために働く人なのです。
中庸とは無理をしない、ということ。
自分にふさわしいことをすること。
そして、この二極の世界でどちらにも偏らず、「中立」であること。
だから、「自然であること」は中庸であって、「自然ではないこと」を望むのは道理に合わないのかもしれません。
あなたは、泣きたい時に笑顔でいなくてもいい。
あなたの、肉体の老化も嘆くものではない。
中庸とは、精神の平穏でもあるからです。
あなたのなかには、謙虚さ、寛大さ、明るさ、優しさ、楽しさ、のびやかさ、いろいろな要素がこめられています。
そのなかでも、とくに素晴らしいのは「私はやましくはないが、だからといって正しい者でもない」と言える、誠実なところなのです。
「すべての真実なこと、すべての誉れあること、
すべての正しいこと、すべての清いこと、
すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、
そのほか徳と言われること、称賛に値することが
あるのならば、そのようなことに心を留めなさい」
(新約聖書 ピリピ人への手紙4章8節)
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