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手に持ったお守り

先日、ヒーリング・除霊のセッションを受けに、佐賀市からいらっしゃった方と、「人間の罪」について、お話をさせていただきました。

「今まで生きてきたなかで、罪をおかしたことがありません」という人に、私は今まで出会ったことがありません。

でも、人間は、たとえそれを望まなくても、いけないとわかっていても、悪を行ってしまうことがあります。

これこそが、罪の原理であるのでしょう。

「不正な手段を必要とする目的は、正当な目的ではない」(マルクス)

という言葉があります。

その時その時の正義や、組織や会社の正義を自分の正義と思いこむと、人間は苦しくなるもの。

自分の利益だけを目的としたり、誰かの痛みを必要とするような手段に、あなたが求める本当の価値はあるのでしょうか。

自分のなかに、正義や絶対的なもの、揺るぎないものが生まれた時こそ、逆に注意する時なのです。

そして、罪をつくりながら、そのままでいいという開き直りではなく、自らの罪に目覚め、反省をすること。

その先に、救いとやすらぎがあると気づくこと。

自分のなかにある不正に打ち勝つこと。

それができれば、人生において、誰もが多くの人の役に立つこともできると思うのです。

人間は、何をやっていたとしても、知らないうちに過ちをしたり、間違いをおかす可能性を持っています。

でも、それを恐れていては何もできない。

自らのなかにある過ちを発見した時、自らそれを修正していこうとする力、自分の中にある汚れを、自ら排泄していくことを「自浄」といいます。

それは、「自らを清める」という意味。

この、自分で自分を自浄する能力、自分を修正する能力は、あなたの人生を大きく変えていくことができます。

人間は、誰もが自己を正当化するもので、基本的に自分が正しいと思ったことしかできないからです。

自分の判断が結果的に間違っていたことを、あとから発見することもあります。

そんな時、それを正そうとするか、それとも、間違いを認めず、自分が正しいと言い続けるかは、あなたが決めることなのです。

「いつまでも愚かなままではない。時がくれば花が咲く」(弘法大使)

という言葉があります。

この世には定まった性質のものはないように、人間も、つねに同じ状態であるはずがありません。

善人と評価される人間も、悪人と評価される人間さえも、縁に恵まれれば、正しい道を願うのです。

つまり、人間は生きながら、もう一度、いや何度でも、生まれ変わることができるということ。

それを、「智慧に目覚める」といいます。

智慧の目覚めは、悪い因縁や習慣をも転換して、善果として花を咲かす力をもっている。

それは、美しい蓮の花が、汚れた泥の中から咲く姿に例えられるのです。

人間を創ったとされる神は、なんでも出来るはずなるのに、なぜ、人間に罪をおかさせないようにしなかったか。

悪いことをしないように、

人を殺さないように、

自殺をしないように、

とか、なぜしなかったのか。

でも、そうではないのです。

神は、すべてを人間に選ばせるようにしたのです。

だから、あなたの判断によって、これがいい、これをしたい、という自由意思をお与えになったのだろう。

それが、自分の姿をかたどって人間を創られた神からの「愛」であって、私たちへの「期待」なのだろう。

この世の正しい、善とか正義というものが、人間の倫理観によって成り立っているのなら、それは、はかないいものに思えてしまう。

正義だけでは、もう足りないのです。

あなたが、人間らしく、自分らしく、生きるために守るべきこと。

それは、信頼と正直という美徳を意識すること。

真実を知る時の痛みというものがありますが、はたして、真実を知ることが、人間にとって本当の幸せとなるのでしょうか。

いくら求めても答えが出ないジレンマのなかで、

賢すぎず、愚かすぎず、

正しすぎず、悪すぎず、

板挟みになることもなく、

悩みすぎることもなく、

自暴自棄になることもなく、

いただいた命、生かされている命に包まれる安心感を感じながら、

いただいた命、生かされている命のなかで、慈悲の心に満たされて生活すること。

その境地に達した時、それを超えた意識を追求することが、私たちが今ここにいる理由なのでしょう。

その理由を理解する時に、私たちは人間として生まれた甲斐をきっと感じるのでしょうから。

「私の罪を除いて清めてください。
 そうすれば、私は清くなりましょう。
 私を洗ってください。
 そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう」
 (新約聖書 詩編51章7節)

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