絶望の中にある希望
希望は作り出すものではなくて、見つけるもの
人生で時々に出遭うつまづきが、私たちを前に進むことをさせなかったり、昔の自分に戻らせようとしてきます。
そのような迷いの時期を抜け出そうとする時、いつも私たちは未来につながる一筋の光のようなものを見つけようとします。
それが、「希望」なんです。
「すべてを手に入れたがる人間が、希望までむさぼることを防ぐために、神様はその隠し場所を探して探して、最後に人間の絶望の裏に置くことにした」
という物語があるように、希望とは絶望のなかではっきりと見ることができるもの。
だから、危機に出遭う時に希望がこれからの道を示してくれるんです。
(希望がこれからの道を示してくれることについて、以前にもこちらの「希望という力」の中でお話しをさせていただきましたね)
絶望の中で見る希望が与えてくれるのは、どのような状況にも「耐える心」や、今は苦しくてもいつか光が見えてくることを信じる「待つ心」もそう。
思えば、私たちは楽しいことや嬉しいことから、つらいことや苦しいことまで、いろんなことを与えられて生きています。
それは、最終的にはどちらも同じくらいになるようにされています。
ですから、良いことや都合のいいことを喜んで受け取ってきたのなら、悪いことや都合のよくないことも一度受け取ってみようという心でもいいと思うんです。
きっと、私たちが思っている以上の愛や慈悲という「神様の計らい」のなかで、私たちは生かされているのでしょうから。
「旅のどこにいようと、そこはあなたが今いる必要がある場所。
次の道は、いつも目の前にある」
(オプラ・ウィンフリー)
という言葉があります。
あなたの人生は、他の誰にも代わってもらうことのできないもの。
誰かに支えられたり、助けられることはあっても、生きるのはあなた自身なんです。
だから、その人生の中で見る希望も、一人ひとりに違う姿で表されるんです。
私はこういう人間ですという表現も、自分が今見ている希望を話すことでわかってもらえるのかもしれません。
希望が「私を生きる意味」とこれから向かう先を示してくれますし、
希望自体が、今、私が取り組んでいる挑戦でもあったり、幸せそのものでもあるからです。
でも、希望は自分で努力して作り出すものではないんです。
見つけるものなんです。
この世界には、希望を見つけるためのいろんなものがあります。
愛、自然、神様、そして他者、自分も。
考えすぎることをやめて、ゆっくり感じてみる視点でいろんなものを見てみる時、この世界は「こういうふうになっているんだ」という見方もできるようになります。
そうやって、日常のなかで希望を見るために、私たちは時々出遭う絶望を受け取るようにされているのかなと思います。
私も、もっと深く自分のことを見てみようと思います。
私自身を知ることが、他者も含めて、人間というものを理解することでもありますから。
「希望を失ったように感じたら、心の中をのぞいて、強くなって。
そうすれば、いつか真実が見えるーー
ヒーローはあなたの中にいるのだということを」
(マライア・キャリー)
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