愛そのものの存在
愛とは、与えられて与えながら知ることのできるもの
人生の中で、目に見えるものも、目に見えないものも私たちを豊かにしてくれるものです。
たとえば、愛は目に見えないものですが、いろんな人と関わりながらこの世界で生きる私たちを豊かにしてくれるもの。
愛があるから、私たちは寄り添うことも、喜びや悲しみを分かち合うこともできるようになりますから。
愛することと愛されることについても、たくさんの定義があるのだろうと思いますが、愛を表現することに決まった方法はありません。
たとえば、それは信じることであったり、許すことであったり、一つになることであったりしますが、
どのようなやり方が正解とかもありませんから、一人ひとりの表し方も異なっていていいのです。
(愛を表すことについて、以前にもこちらの「分かち合いと愛」の中でもお話しさせていただきましたね)
でも、もし愛とはこういうものだという定義をするのなら、それは計算を必要としない自発的な言葉や行動なのだろうと思うのです。
愛とは知識として知っているだけでは不完全なものだから。
他者から与えられて、自分から与えることで知ることができるものだから。
はっきりした理由とか根拠よりも、判断と行動だけで伝えることができるものだから。
私たちは、出来事や言葉の一つひとつに、意味や目的を見ようとしがちです。
愛情はその反対側にある考え方のものですから、考えすぎることや合理的な思考を忘れることで、さらい深く感じられるようになるのでしょう。

「愛するとは、互いにかけがえのないものとして、
相手をいとおしむ心、相手の生命を、そのもっとも本来的使命に向かって、
伸ばそうとする心である」
(神谷美恵子)
という言葉があります。
私たちが惹きつけるように動かされて行動をする時、心のなかには愛があります。
振り返って、あれだけのことがよくできたなあと思う当時の自分もあったはず。
愛には、内にある想いを外に表そうとさせる力と、不可能を可能にする力があります。
人と人が愛し合うということは、今までのそれぞれの生き方を見せ合うことであって、これから二人の人生をすり合わせていくこと。
だから、愛することは相手をいとおしく想う心と、相手の成長を願う心のことなのでしょう。
今まで奪うことで手に入れようとしていたのが、無条件に与えられていることに気づいて、今度は自分から与えたいという心に変わっていく。
自分の中にある明るいもの、光のようなもの、愛を与えたいと想う心になっていく。
それが本当の私たちの姿なのかもしれません。
本当の私たちは、愛そのものなのかもしれませんから。
「最高の愛とは、魂を目覚めさせるようなもの。
それは私たちの心に火をともし、心に平穏を与えてもくれるもの。
それは、私があなたにどんなときも与え続けたいと願う、
たったひとつのもの」
(ニコラス・スパークス)
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