自分という存在の大きさ
幸福も不幸も、自分の存在の大きさを決めることから出会うもの
先日、佐賀市からヒーリング・除霊を受けに来られた方と、ゆっくりお話しをさせていただきました。
これから、ご自分の意志と行動をもって、心の指す方向へ人生の目的地を見つけられてくださいね。
私も、応援しています。
ご縁に感謝いたします。
ありがとうございました。
「わたしは心をつくして知恵を知り、また狂気と愚痴とを知ろうとしたが、
これもまた風を捕えるようなものであると悟った。
それは知恵が多ければ悩みが多く、知識を増す者は憂いを増すからである」
(コヘレトの言葉1章17~18節)
という言葉があります。
今の時代は、様々な情報が存在しています。
その情報を気にしすぎていると、自分の価値観や判断力は鈍ってきます。
情報を比較しているうちに、どちらが利益になるか、どちらが上手かという損得を考えてからでないと行動できなくなるからです。
私たちの目指す姿は、目の前に二手に分かれた道が現れても、即断即決できること。
そのためには、進路を選ぶ判断材料が損得ではなく、好きか・嫌いかであることです。
私たちは、今までこの世界を生き抜くために、様々な知識を身に着けてきました。
でも、その知識が今、あなたの一歩を踏み出すことの足かせとなっているのなら、ひとつ一つ捨てていくことです。
それは、ある意味、子供のように「今ここ」に夢中になるなることなのかもしれません。
現状を打開しようとする時、今まで自分が持っているものを握りしめたまま、何かを得ようとすると悩みや迷いが生まれることがあります。
新しいものを得ようとするのなら、今持っている何かを手放すこと。
何かを始めようとするのなら、何かをやめること。
それは、確かにその時は、とても厳しい選択となるかもしれませんが、後々に最善の選択となるのです。
損得勘定が人生をややこしくすることがあります。
人生の岐路で、これからの選択をする時、損得勘定から選択を求めると、自分の思いが薄くなってしまいます。
損得勘定を捨てて、シンプルに見つめれば、最終的な判断基準は好きか嫌いかという、とてもシンプルな基準になります。
その時、あなたは損得のために無理をすることもなくなり、生きている目的も見えてくる。
人生を自分の手に取りもどすことになるのです。
「本質的なものというものは決して死なず、物事を明らかにする」
(ソーントン・ワイルダー)
という言葉があります。
自分の人生には何もいいことがなかったように思う錯覚というものがあります。
それは、不幸と言うこともできない、幸福とも言いがたい人生だと思ってしまうこと。
つまり、充実をしていなかった人生と思ってしまう思い込みのこと。
自分のことを幸せだと思って生きている人と、自分のことを不幸だと思って生きている人の違いとは、自分の存在の大きさを知っているかどうかなのです。
威張っている人が大きく見えたり、自信のない人を小さく思うこともあるでしょう。
でも、自分のサイズは変幻自在です。
自我のレベルの自分もいれば、宇宙や神レベルの自分もいるのです。
それは、自分で創り出していくもの。
あなたが、自分はこのようなもの、と思っているよりもずっとあなたは大きい存在であって、オンリーワンというものを超えた存在なのです。
私たちは、もともとこの世界にいなかった存在ですから、生まれることと死ぬことの本当の理由を知っているのは、私たちではないのです。
そしてなぜ、私たちが100年という、宇宙のすべての森羅万象のなかにあっては、とても短い寿命を与えられているのか。
それは、本当に生きるということはどういうことかを私にわからせようとされたからでしょう。
人生についてのいろいろな情報ではなく、この世の真理を分からせるということでしょう。
考えるよりも感じること。
大切なことは肌で感じる豊かさ。
人と人の触れ合いが、私たちの心を幸福感で満たしていくように、豊かさとは、手に入れるものではなく、感じるもの。
言葉と心を一致させる。
自分で自分を知ろうとする。
そのように美しく生きていれば、まっすぐな分岐のない道があなたの目の前に広がっているはずです。
「魔法とは自分を信じることだ、もしそれが出来れば何をするのも可能だ」
(エラ・ウィーラー・ウィルコックス)
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