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遠くの景色を見つめる人

生き方を変えるとは、あなたがどこを向くかということ

私たちは、人との出会いや、新しい考え方に触れる時に、今まで気がつかなかった生き方を生み出すことがあります。

それは、人との交流のなかだけで生まれるものではなく、SNSや読書や映画などもそう。

あなたの感受性をみずみずしくさせてくれるものは、あなたの周りにたくさんあるのです。

朝日を浴びる人

映画「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」のなかで、ブラッド・ピットさんが演じる主人公は、若返りながら人生を生きています。

大切な人とすごす限られた時間のなかで、娘さんに宛てた手紙のなかに、このような一節があります。

「いろいろなことにびっくりしたり、初めての感情に揺さぶられたり、
 いろんな価値観を持つ人に出会うことを祈っているよ。
 誇りを持てるような人生を送ってもらいたい。
 そして願わくば、道を見失ったときにも、最初からやり直す力を持てますように。」
(「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」より)

生きるとは何かということを、自分のなかで、自分なりに見つけようとする時、

生きるということは、この世の真理でもあるので、ひとり一人に異なる理解ができるものだと気づきます。

そして、「これしかない」という答えを断言できないものでもあると気づきます。

そう思えば、この世のだいたいのことを知っているつもりでも、それはまだこの世界の一部分を解き明かしただけで、まだまだ私たちは無知であると気づきます。

そして、そこから始まる新しい展開が、まだまだ無限に私たちの前に現れてくれるという可能性に出会うことができるのです。

海岸を散歩する人

「賢者は愚者にまさる益を得ようか。
 人生の歩き方を知っていることが貧しい人に何かの益となろうか。
 欲望が行き過ぎるよりも、目に見えているものがよい」
(旧約聖書 コへレトの言葉6章8~9節)

という言葉があります。

どんなに崇高な理念も、どんなに素晴らしい人生観も、ただ知っているだけではなく、実際にあなたの身体を通して体験して、悦びを体感して、痛みを覚えてこそ、あなたの生き方に表れてきます。

本質的な智慧(物事をありのままに見て、真理を見極める力)とは、表面的な知識や、頭がいいとか悪いとかを言うのではありません。

そして、物事の道理や筋道に偏りすぎずに、実生活のための知恵(物事の筋道を立て、計画し、正しく処理していく能力)を身に着けていく。

私たちは、考えすぎず、ただひたすらに生きることが大切なのでしょう。

その時、あなたは徹底して人間的であっていいのです。

ただ、その人間性が、どのような状況のなかにあっても神の存在の光に照らされて、

悦びや悲しみはもっと深く表れて、その悦びは祝福されて、その悲しみは見捨てられることなく神と結ばれている、というつながりを生むのです。

夕日に照らされる人

周りを見渡せば、生きるための要因も、死ぬ要因も、無限に見つかります。

私と周りの違いも、無限に見つかります。

でも、私だけが清らかではなく、私だけが汚れているのではなく、私だけが優れているのでもないのです。

人間は、誰一人、同じではありません。

同じ環境で育ってきた兄弟でも、どう見ているか、どう生きるかによって、個人の違い、生命としての違いが出てくるもの。

人間の立つ位置は同じでも、どこを向いているかによって、世界の見え方が変わるからです。

私たちが、「生きること」に主観を持つということは、その「向き」が変わるということ。

それは、「過去」の方を向くか、「今」の方を向くか、

自分の「外側」に注意を向けるか、自分の「内側」に興味を向けるかということでもあるのです。

「目に見えるものでも、見えないものでも、
 遠くに住むものでも、近くに住むものでも、
 すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、
 いっさいの生きとし生けるものは、幸せであれ」
(ガウタマ=シッダールタ)

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