自分を疑ってみる視点
自分の在り方を疑うことによる学びとは
先日、筑後市からヒーリング・除霊のセッションを受けに来られた方と、「自分」という存在についてゆっくりお話しをさせていただきました。
私たちが自分であると認識している「自分」とは、なんらかの形で他者から認められたり愛されていないと、疑ってしまったり崩れてしまうことがあります。
でも、その「自分」というのは、生まれながらに備わっているものではなく、生きているうちに自ら創り上げた、映画の主人公のような存在。
そうとらえるのなら、私たちはひとり一人が自分についての物語を創って、そのストーリーを生きていると言えるのでしょう。
でも、頭の中で思い描いた物語は、現実において、すべてその通りに進むわけではないのです。
そのために、私たちは喜んだり悩んだり、楽しんだり苦しんだりしながら、その物語に修正を加えて生きているのでしょう。
「神は、我々を人間にするために、何らかの欠点を与える」
(シェイクスピア)
という言葉があります。
私たちは、自分を「正しい」とするフィルターをもって、いろんな物事を判断する傾向があります。
でも、本当は自分の考えがいちばん正しいのでもなく、自分の判断がいつも最善でもないのです。
私たちは今まで自分が見たり聞いたり、経験したことから判断することが現実になることを幸せと思い込んで、思った通りにならないと悩むことがあります。
でも、自分の知っていることや、今まで経験してきたことは、この世界のわずかな事ですから、
どんな事についても、自分と異なる正しい考えや、自分と異なる最善の判断があるという意識を持つことで、いろんなとらえ方ができるようになります。
今の自分にはわからなくても、それでいいのです。
異なる意見が、やがてあなたを正しい考えや最善の判断へと導いてくれることもあるのです。
時間が経てば、誰にもわかるようになるから、今はまだ思っていたことと違う結果でもいいのです。
この考え方を持っていれば、本当のつまづきに出会うことはないのです。
逆に、あなたが誰かにアドバイスをする時もそう。
その助言が、自分にとって善いことだと分かれば、その人は自ら善い行動をとろうとします。
あなたはその人の良心に話しかけて、その人は自分の良心に従って行動するからです。
その人のことを案じてアドバイスをする時に、強い言葉も大きな声も必要ではないのです。
穏やかな態度で、相手の幸せを願って、寄り添うこと、向き合うこと。
相手の言葉にとらわれず、流されず、静かに受け止めて、その人に必要なことをお伝えする。
それは、相手を従わせるテクニックではなくて、相手の良心に向かって真っ直ぐに語りかけること。
そうしているうちに、その人の表面にあった感情の奥にある、素直さや従順な心が現れてきて、表情から暗さが消えていくのです。
それは、あなたの言葉を感情ではなく、心で理解できたからです。
「自分」についての迷いや悩みは、人生の経験も関係なく、男性も女性も、大人も子供も関係なく、誰もが感じるものなのです。
生き方というものは、単なる知識によって導き出されるものではないのです。
自分一人では、学べることにも限界があるのです。
だから、人と分かち合い、寄り添いながら、私たちは学びを深めていくのです。
頭で考えるだけではなく、心に感じるものも大切なものですから。
「傷あとを隠しちゃいけない。
その傷が君を君らしくしているんだ」
(フランク・シナトラ)
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