中道を歩むために
出来事も感情も、すべてをフラットに見渡すバランス感覚を持つこと
先日、福岡市から来ていただいた方と、心をニュートラルにして物事を見る大切さについて、お話しをさせていただきました。
「中道を歩く」という考え方があります。
それは、楽ができるとか、自分の利益になるようなことではありません。
日々、耳にするいろいろな主張や意見のなかで、どちらにも偏ることなく、この世界の真理や悟りに近づくための方法の一つなのです。
「善人がその善のゆえに滅びることもあり、
悪人がその悪のゆえに長らえることもある。
善人すぎるな、賢すぎるな。
どうして滅びてよかろう」
(新約聖書 コレヘトの言葉7章15~17節)
この言葉が表そうとしているもの。
それは中道を歩むということ。
あなたの周りには、いろいろな人がいると思います。
男性と女性、健康な人と病んでいる人がいて、いい人もいれば、悪い人もいます。
私たちは、そのどちらが良いとか悪いというジャッジをつい行って、偏った考え方をしてしまうもの。
でも、そのどちらにも偏らず、両端の考え方を正視して認めることで、その真ん中にある「中道」が見えてくるのです。
今までを思い出せば、偉い方や立派な方からたくさんのことを学ばせていただいたり、
そうではない方からも、いろんなことや生き方を教えていただきました。
健康で恐れるものがない時に、たくさんの経験を積んだり、健康を失って自信がなくなった時にも、人生を深く理解することができました。
あなたを困らせる人や出来事に出会った時、思わずジャッジをしたくなることもありますが、
でも、あなたにとってのその困った存在から、たくさんのことを学ばされる。
喜びも、悲しみも、嬉しさも、怒りも。
そのことに気づくのはずっと後になってからなのです。
「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が喜ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」
(コリントの信徒への手紙12章14~26節)
という言葉があります。
私たちの身体についてもそうです。
私たちの身体の中には、強くされている部分と弱くされている部分があります。
その両方をもって、普通と呼ぶのでしょうか。
この世界のすべては、どちらが強調されることもなく、バランスよく、それぞれの部分が存在しているのです。
仏教に「身心脱落」(道元)という言葉があります。
それは、あらゆる自我意識を捨てること。
自我とは、自分の意志・思考・観念のことですが、私たちには感情がありますから、喜怒哀楽を表して生きることは、悪いことではないのです。
人間は感情の生き物ですから。
でも、感情に左右されれば、冷静な判断ができなくなる。
逆に、いつも感情を外した決断ばかりするのなら、それは人間らしい生き方ではないのでしょう。
人間らしく生きるためには、バランス良く感情をコントロールすること。
現実はあるがまま、そのままですから、私たちはそれをあるがまま、そのままに受け取ればいいのです。
そのためには、余計なものを持ちすぎないこと。
私たちは、たくさん持つようになると悩んでしまうものです。
持ち物も成功体験も、あればあるほどあなたの執着となるのなら、
一度、捨ててみることから始まることもあるのでしょう。
「一人ひとりの人生が、
ものすごく大勢の人生に
影響を与えている。
だから、一人が欠けただけで、
世界には埋められないほど
大きな穴が開くんだよ」
(映画「素晴らしき哉、人生!」より)
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