愛から始まるもの
愛の力を超えるものはないということ
「人間の心は、肉体とともに滅びるものではない。
ある永遠なものが残るのである」
(スピノザ)
という言葉があります。
私たちが目にしている、すべての物質には限りがあります。
そして、それを獲得するために競争を行って優位に立つものが望むものや、地位や財産を得られるというのが、競争の原理であって、資本主義の原理でもあるのです。
人生とは競争や戦いであると、多くの人が思っていますが、でも、それがすべての考え方ではありません。
聖書のなかには、このように書かれています。
「人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになる」
この言葉は、自分の発した言葉や行いが、そのまま自分に帰ってくるということであって、
人生とは、自分が与えたものを受け取る場所ということなのでしょう。
もし、喜びを与えるなら、喜びを受け取るでしょうし、
憎しみを与えるなら、憎しみを受け取るでしょう。
そして、愛を与えるなら、愛を受け取るでしょう。
「愛」は、とても豊かな言葉です。
いろいろな意味があります。
愛について、ギリシャ語では、3つに分類をされています。
エロス(情愛)
フェリア(友愛)
ストルゲー(親子愛)
この3つを、一般的に人間が抱く愛と表していて、それに対して、神の愛はアガベ―と呼ぶそうです。
では、この3つの私たち「人間の愛」と、「神の愛」の違いは何なのでしょうか。
それは、人間の愛は見返りを必要とする愛ですが、神の愛は無条件であるということ。
最初から自分が愛されることや、なんらかの見返りを必要としない愛が、神の愛であるのです。
そのような神の愛を、はたして人間が体現できるのか。
できることなら身をもって知りたいと思うこともあります。
でも、肉体への執着をもっていて、この世界で目にする目にするものを見返りとして求めたがる私たち人間にも、その機会を与えられている人達がいます。
それは、お母さんなのです。
お母さんは、赤ちゃんを育てている間、そのような忍耐強く見返りのない神の愛を体験しているのです。
だからこそ、人は生まれてくる意味があると思うのです。
誰もが、そのような強い愛に包まれた経験をどこかでしているから、きっとその記憶が神の愛を思い出させることがあるのです。
そして、その愛に包まれて育った私たちは、誰かのために見返りを求めない行動ができるのでしょう。
神の愛とは、お母さんだけが体験できることではなく、誰にも同じように、それぞれの立場や環境に応じた体験が用意されているものなのです。
「受けるよりは与える方が幸いである」
(新約聖書 使徒言行録 20章33~38節)
という言葉があります。
人は、欲しがっている「物」を本当に欲しいのではなく、それとは別の「もの」を手に入れたいと望んでいます。
それはプレゼントではなく、愛なのです。
お金で楽しみは買うことができますが、愛は買えません。
愛の価値とはそういうもの。
そして、愛の代償はお金ではありません。
心を支払うのです。
人間が、自分は生きるに値するのだろうか?と自分に疑問を持つ時、「受ける時ではなく、与える時である」という言葉がそのまま答えとなるのでしょう。
そしてこれが、人間の愛についての普遍的な真理なのでしょう。
自分の命も、他者の命も同じです。
少しだけでも他の人の声に耳を傾けられるゆとり、目を向けられるやさしさが生まれることや、
完璧なものの中にある欠点も当然のものとする想いを、愛と呼んでもいいはずです。
だから、仕事や恋愛だけではなく、あらゆる対人関係の土台は愛によって築かれるべきなのでしょう。
どのようなテクニックや言い回しも、愛という反応の前には無力になることがあるからです。
「前もって知らなければ、誰も愛さない」という言葉の通り、知識は愛の前提にあるもので、愛を超えるものではないのです。
みんなに与える。
これが本当の愛の気持ちです。
ただ、愛するという気持ち、感情だけでは足りないのです。
人は愛されていることを求めている。
すべては、愛から始まるのです。
「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。
互いに愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように、
あなたがたも互いに愛し合いなさい」
(新約聖書 ヨハネの福音書13章34節)
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