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山頂から朝日を見る人

「ベタな展開」と評価される映画や物語があります。

「ベタ」とは、「特別でない」「ありきたり」という、もともとの意味から派生して、「おもしろくない」という意味でも使われる言葉です。

映画や物語の感想の表現としてよく使われますが、私は、その「ベタ」と評される映画が好きです。

主人公の目指す途中には、分かりやすい敵役がいて、栄光の前にその覚悟を試されるような挫折に遭って、それを乗り越えていく。

そのような展開がとても好きなのです。

常に何かに打ち込んでいる人が「強い」と感じるのは、生きる力や、創造的に前へ前へと生きてゆくエネルギーに満ちあふれているからです。

私たちは懸命に生きることで、日々の体験から学んだ喜びや希望で、心が満たされていく。

結果や名声は、あくまでもおまけであって、懸命に何かに取り組んでいるときの充実感こそが、あなたの力の源なのです。

あなたの行動は、自分の内側から出てくるものだから、あなたの内面を写す鏡でもあるということ。

だから、いろいろな言葉を使って、行動して、今の感情や気持ちを表していく。

ひとり一人が、それぞれの人生において、自分を表していく「表現者」なのです。

自分を意識していなくても、自分を体いっぱいに表現している子供と同じようになれば、おのずと人生の楽しみを取り戻すこともできるのです。

これから、何が芽を出すかもわかりません。

まずは、思いつくことをやってみること。

今、何を知っているかよりも、これから何を行うかのほうが重要なのです。

チャンスも平等に与えられています。

すべての人に同じように時が与えられていて、誰もがみな好機と出会うもの。

だから、時とチャンスをどう生かすのか。

人間は、行動することで、自分の内なる世界を現実にする力を持っているのです。

時間も止めることはできない。

大切なことは、なすべき時に、なすべきことをしたかどうか、ということ。

「人間にとっての真実、それは人間を人間にしてくれるもの」(サン=テグジュペリ)
という言葉があります。

私たちは、生きていくなかで、様々なものの影響を受けて、いろんな視点を手に入れるのです。

欲望をもって見れば、欲望しか見えない。

知識を増やせば増やすほど、疑問も増える。

魂に何の歪みもない「直」の状態で生まれてきた私たちは、欲望や知識だけでは、自分のすべてを埋め尽くすことができません。

たくさんのものを持つことが悩みとなる私たちは、目の前のことから目を外して、目を閉じることで初めて遠くが見えるのです。

それは肉眼ではなく、心の眼。

あなたが想う一つのことに集中しながら目をつぶると、遠いところから答えがやってくる。

心を乱す原因は自分にあると気づいたなら、子どものように純粋な「無知」と「自己陶酔」こそが、知識よりも心強いものだと分かるのです。

欲で満たして生きることでは、あなたの心の渇きが潤されないのなら、意識的に欲望を捨てること。

この世の富に絶対的な価値を見ないこと。

ありのままに見るとは、最初から価値や判断を与えて見ないということ。

いつか、私たちが後悔するのは、夢がかなわなかったことや、かなえられなかったことなどではありません。

それよりも、むしろ、夢をかなえるために全力を尽くせなかったことに悔いが残る気がするのです。

夢を持ち続けること。

中途半端でしないこと。

後悔しない生き方とは、自分を取り戻す姿勢から生まれるものなのです。

すべてはあなたのもの。

世界も生も死も、今起こっていることも、将来起こることもそう。

一切は、誰かがいつかに経験したことかもしれないし、特別でもなく、ありきたりなものかもしれない。

でも、すべてはあなたの価値観と感受性で、新しくされていくものなのです。

「この世界と調子を合わせてはいけません。
 いや、むしろ、神のみこころは何か。
 すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、
 完全であるのかをわきまえ知るために、
 心の一新によって自分を変えなさい」
 (新約聖書 ローマ人への手紙12章2節)

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