中庸という生き方
どちらにも偏らない、心に平穏を与える生き方
先日、福岡県久留米市からヒーリング・除霊・占いのセッションを受けに来てくださった方と、ゆっくりお話しをさせていただきました。
私たち日本人は、もともと物事にはっきりと白黒をつけないこと、「中庸」の姿勢を大切にしてきました。
どんなこともはっきりと白黒をつけることは、ある意味、ジャッジをすることや裁くことになって、そこに対立が生まれますから、
そのような対立をうまく避けるために、昔からいろんなことの判断をあえてあいまいにしてきたはずです。
それは、誰にもネガティブな思いをさせない、素晴らしい見方だと思うんです。
たとえば、私たち日本人はクリスマスから大晦日、新年にかけて、一週間で3つの宗教を持つと言われていて、海外の方からは不思議に見られることもあるそうなのですが、
キリスト教も仏教も神道も、人間にとって大切な神様への信心になるものだから、どれもあってもいいじゃないかという考え方もあっていいと思うんです。
イエス・キリストであっても、仏様であっても、神様であっても、自分の信じているものに心をこめて手を合わせることを大切にすることは、
心の平穏を私たちに与えてくれているはずですから。
(私たちに心の平穏を与えてくれるものについて、以前にもこちらの「今日を大切に生きる」のなかでお話しをさせていただきましたね)

最近は、どんなことについても効率が良いことが優れているという評価をされるような時代ですから、
イエスかノーをはっきり主張することも、すべてに白黒をつけることも、良いこととして認められるようになってきているように思います。
もちろん、お仕事ではあいまいな答えはできないこともありますから、はっきりとさせたほうが良いこともあります。
でも、どんなことにも二つの選択肢だけで見ていると、なにか窮屈な生き方になってくる気がするんです。
どちらか一つだけに決めようとすることは、「こちらが絶対に正しい」という執着をすることになるし、
その反対にある意見を「間違っているもの」と見ることになりますから。
自分の心の逃げ道もなくしてしまいそうな気がするんです。
「両忘」(禅語)という言葉があります。
それは、「両端にあるものを忘れること」
善と悪、是と非、美と醜、愛と憎。
向き合っている二つのものをあいまいにすること。
どちらかに決めつけるのではなくて、どちらにも執着をせずに、どちらにも理解を示すことができるあいまいさの中で生きてみる時、
今よりもう少し、心を楽にして生きることができるはずですから。
「きみは苦しむために
この世に生まれてきたんじゃない。
生きることのすばらしさを味わうために
この世に生まれてきたんだ。
だれもきみを
苦しめることなんて、できない。
きみは、自分で自分を
苦しめているだけなんだ。
もう、苦しまなくていいよ。
そう、自分に言ってあげなさい」
(葉祥明)
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