喜んで捨ててみる
心が移ろうからこそ、自分を新しくすることもできる
先日、佐賀県の祐徳稲荷神社参拝ツアーを開催いたしました。
ご一緒していただいたみなさん、ありがとうございました。
またぜひご一緒しましょうね。
ありがとうございました。
神社やお寺でお参りをする時に、本殿の前でお賽銭を入れますよね。
これを「喜捨」といいます。
その字のとおり、「喜んで手放すこと」を表している言葉なのですが、誰かのためにちょとだけ自分を犠牲にして何かをしてあげることや、
自分の心に抱えている執着やこだわりを捨てることも意味している言葉なんです。
物事や立場や人間関係について、私たちは多少の執着をもっているもの。
その想いは、なにかにこだわる信念から始まるものだったり、失いたくないという強い愛情から生まれるものだったりしますから、そのすべてをなくすことはできないかもしれません。
でも、自分の内で生まれたものは、自分以上にはなれないもの。
自分でコントロールできるものなんです。
神社やお寺でお賽銭を入れながら、今、自分がとらわれているものを手放していくイメージをしてみてください。
あなたのとらわれている心を、あなたが自分で解放していくんです。
(自分で自分の心を解放していくことについて、以前にもこちらの「解放から始まる主体性」のなかでお話しをさせていただきましたね)
「おまえさんの問題はね、
考えすぎることだよ。
考えすぎると、
怖くなってくるからね」
(映画「コクーン」より)
という言葉があります。
私たちの一生は、いろんな人や出来事との出会いによって創られていきますから、時々、出会うものに強い想いをもってそのことばかりを考えてしまうことがあります。
それは、あなたの内に、これから目指すところが見えた時に感じるのかもしれませんし、
誰かのことを自分以上に大切に想う時に感じられるのかもしれません。
でも、「こだわること」と執着は同じではないし、「愛すること」と執着も同じではないんです。
うまくいくとかいかないとか、いつか心が離れてしまわないかとか、恐れや不安から考えるのではなくて、
自由で柔軟な心で、いろんな視点から見てみて、幸福や喜びから考えてみてください。
明るい方だけを向くことができないのなら、暗い方だけを見続けることもできないはず。
明るい方も暗い方もどちらも見ることで、私たちはこの世界の本質を知ることができるから。
いろんなものを見るために、私たちには「心の移ろい」が与えられているんです。
逆に、心が移ろうからこそ、自分を新しくすることもできるはず。
どんな時でも、前を向くことができるはずですから。
「いつも闘いです。
自分の古いものを捨て、
いかに新しいものを出すか」
(乙羽信子)
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