好きと嫌いの区別
どんなことにも、好きなところも嫌いなところも認めること
先日、うつ・心の病・不登校の方向けのヒーリングを受けに来てくださった方と、「好きなことと嫌いなことを見ること」について、お話をさせていただきました。
私たちは誰もが「好き」と「嫌い」を区別する基準を持っています。
その気持ちを表に表すかどうかは別として、誰の心にも、自分なりの好きなことと嫌いなことはあるんです。
本当はどのようなことも好きであることが美しい理想なのですが、肉体を持っている私たちは自分を生存させるために利己的にならざるをえない部分があるんです。
ですから、どのような人や物についても、あなたが思う「好きなところ」と「嫌いなところ」を見つけることができれば、それでいいんです。
この世界のすべてのものに当てはまるバランス、中庸というものは、陰と陽のどちらにも振れながら保たれている中間地点のことですから。
だから、あなたの好きと嫌いの「あいだ」ぐらいで、その人や物を見ていいんです。
先日にお会いした年配の方は、みなさんが「これは許せない」と言われている人についても「なにか事情があるんだろう」という見方をされたりできる、
どんな人や出来事にも穏やかに接する、中庸の態度の方でした。
それが、目の前にいる人の「あいだ」を見る視点なのでしょう。
(中庸の見方ということについて、以前にもこちらの「誠実な人とは」のなかでお話しをさせていただきましたね)
『「厳しさ」をくぐり抜けた「優しさ」を持つ』
(桜井章一)
という言葉があります。
意見や物事をはっきりさせないことは、ずるいとか、あいまいとか、誤解をさせてしまうこともあるかもしれません。
でも、それはお会いする人への優しさや愛でもあると思うんです。
少し話しただけでは、みんな同じような普通の人に見えるもの
その人の素晴らしいところも、個性的なところもわかりにくいものです。
でも、その人を理解したいと思って、時間をかけてその人を知ることをしていくうちに、その人しかもっていないものを見ることができるんです。
それは、あなたの好きとか嫌いとかでは区別することができないもの。
その人の生き方、命の使い方を見ることでもありますから。
今は、いろんなことについて答えがすぐに出てくる時代です。
だからこそ、ちょっと時間をかけて理解していくことで得られるものが、私たちの本当に価値のあるものになるはずです。
「マル・バツ」だけで判断することで頭が進化していきますが、マルとバツだけではなくて四角もあるなと思うことができれば、心が進化していくんです。
いろんなことがある日常のなかで、せめて人についてはマルと四角だけで見ていきたいですね。
私たち人間はそんなに完全には創られていませんから、考えることやすることにも、どこか足りないところがあるものですから。
そこをお互いが素直に理解し合えることで、ゆるす心も生まれるはずです。
その見方が、これから私たちが進んでいく道を豊かな方へ変えてくれると思うんです。
「本当の優しさとは、自分から与えるのではなく、
相手が求めてきたときに、さりげなく示すもの。
あるいは、他人を許すこと」
(秋元康)
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