私の心を開放する
私の感じたいように感じてみる
私たちの心というものは、いろんなものに「酔いやすい」ものです。
それは、自分の容姿や才能や知識、理想もそうですし、お金や地位や名誉もそう。
あげだしたら、きりのないものです。
でも、その「酔う」ことのできるものを手に入れた時、自分の自信となることもあります。
そして、それは人生の充実になるものでもありますから、それを求めて努力することは、私たちの人生を彩るための大切なことでもあるんです。
でも、そこにあまり執着すると、自分を見失うこともあります。
執着というのは、一つのことしか見えなくなったり、自分を抑えることをさせなくなってしまうからです。
ここで大切なことは、どのようなことも「正しい」と「悪い」で区別をしないこと。
どのような出来事も、どのような意見も、それなりに正しいという前提で見てみるんです。
心が混乱している時、何かにとらわれている時は、一度、心を落ち着かせること。
自分の心と目の前の出来事に距離を置くこと。
その状態を、禅では「無観」(白隠禅師)と表されていますが、何も入ってこない、何からも影響をうけていない0(ゼロ)の境地に自分を置いてみることで、自分の本当の声が聞こえるようになりますし、自分の本当に求めているものもはっきりと分かるようになるはずです。
心がとらわれている時は、一度、ゼロの状態になってみることなんです。
(とらわれないということについて、以前にもこちらの「無心になること」の中でお話しをさせていただきましたね)
ゼロの状態になるということは、考えることをやめてみるということ。
つまり、思考することを止めて、感覚を働かせるということ。
考えることをいったんやめると、気持ちが落ち着いて、心も穏やかになって、感覚が豊かになっていきます。
それは、脳科学の世界でも同じように言われていて、思考することを止めると、脳の伝達物質であるセロトニンの分泌が活性化されるそうなんです。
「花に逢えば花を打し、月に逢えば月を打す」(禅語)
という言葉があります。
花に逢った時はその花をゆっくり感じてみて、月に逢った時はその月を感じるままに感じてみる、という意味の言葉です。
つまり、余計なことを考えずに、心を空っぽにして、感じたいように感じてみること。
それは、長い時間ではなくてもいいんです。
忙しい毎日のなかで、ちょっとだけ道端に咲いている花に目を向けてみること。
風の音や、鳥のさえずりに耳をすませてみること。
毎日、少しずつ形を変えていく月を眺めてみること。
いろんな変化に疲れてきた時は、ただ在るようにしてある自然に目を向けて、自分と自然を一体にすることで、感覚を豊かにしてみてください。
その時は、悩みや、とわられていることが小さく思えるはずです。
その時は、自分で自分の心を開放している時なのですから。
「自分がいい所へ行こう
行こうと思うと
少しもいい所へ行かれない
いい所へ行こうとしなければ
しぜんにいい所へぶつかる
いい所へ行こうとするから
いい所へぶつからないんだろう」
(山下清)
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