いい加減になること
これ以上でもこれ以下でもない、絶好の加減の状態になること
自分の持てるすべての力を出し切っても、どうにもならないことというものがこの世界にはあります。
それは、他者の気持ちを自分の思う通りにしたいと願うことや、自分の都合の良い出来事だけが起きてほしいと思うことであったりします。
そのことを本当に理解することができれば、今まで「なぜうまくいかないのか」と納得できなかったことが、本当は自分の力だけではどうにもできないことであったことに気がつかされたりするのです。
(自分の力だけではどうにもできないことを見極めることについて、以前にもこちらの「自分次第のもの」の中でお話しをさせていただきましたね)
たとえば、それは私たち人間の身体についてもそう。
私たちの意志とは関係なく、心臓は勝手に動いてくれて、身体は食べ物や空気をエネルギーとして取り込んでくれていますから。
私たちの命さえも、私たちの手が及ばない、どうにもならない状況で成り立っているということなのです。
だから、過去のどんなことにも、今の目の前のどんなことにも、どうにもならないことがあるとしても不思議に感じることはないのです。
そして、「どうにもできないこと」は「どうにかしなければいけないこと」でもないと分かればいいのです。
どうにもならないことは、そのまま、あるがままに受け止めておけばいいのです。
それができれば、心がとらわれることもなくなって、今度は「どうにかなる」ことに前向きに取り組んでいけるようになるはずです。
どんな時も、私たちが心を向けるべきはそこなのだろうと思うのです。
「人間は、知りすぎるほどに知っているのだが、行動はあまりに少ない」
(バックミンスター・フラー)
という言葉があります。
どうにかなるという考えを持つことは、何もしなくていいことでもなくて、楽をすることでもないのです。
それは、いい加減になるということ。
その「いい加減」とは、これ以上でもなく、これ以下でもない、絶好の加減ということ。
私たちは感情がたかぶったり、周りの影響を受けることで、自分がコントロールできることとできないことの判断ができない時があります。
その時に、コントロールできないことに力を注ぎすぎていれば、思う通りの成果は出にくいもの。
だから、今の自分の力量を見極めて、それが自分の手でどうにかできることなのかどうかを判断すること。
それが、加減を知るということなのでしょう。
いろんな体験を通して、人生や自分自身についての絶好の加減を誰もが学んでいきます。
それは、理屈や知識だけでは理解することが難しいものだから、終わりなく一生を通して続けていくもの。
私も日々、学びの連続です。
これからも、どのようなことも恐れずに経験をしていきたいと思います。
すべては、私の絶好の加減を創り出してくれるものですから。
「人類は、いわば不断に学ぶ唯一の存在である」
(パスカル)
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