変化できるという強さ
私たちには、限界も制限もないということ
私たちは「変わらないこと」が正しいと無意識に思っているものです。
それは、日常の生活パターンから、自分の考え方から、自分の周りの環境から、この世界の真理や自分の個性についてもそう。
でも、ちょっとだけでも「これが自分」という枠を抜けて、いろんな場面で自分のことをいろんな表現で表すことをしたり、今まで出会うことのなかった人の意見に触れることができれば、もっと自分を試す機会に出会えるはずです。
それが、自分自身を楽しむ生き方につながるのです。
(新しいことに触れる大切さについて、以前にもこちらの「私を新しくする」のなかでお話をさせていただきましたね。)
その時その時の状況に応じて自分の心を変化させる力は、誰の中にも備わっています。
その力を仏教では「観音力」と呼びます。
心が常に定まっていないことを、私たちは「出来心」と呼んでマイナスなイメージでとらえていますが、
それは状況に応じてどのようにでもなる心でもあって、常に新しいものを取り入れようとする心の動きでもあるのです。
私たち一人ひとりの願いに対応してくれようとする観音さまの力がそうであるようにです。
だから、一人の人間がいろいろに変化する力も、時と状況でどんなふうにも変化できる力も、すでに私たちの中にもあるということなのです。
いろんな人との関係の中や、状況の中でできあがってくるのが私たちの心なのですから。
「気に入らないことがあれば、それを変えなさい。
変えることができなければ、自分が変わるのです」
(マヤ・アンジェロウ)
という言葉があります。
そう思えば、私たちの個性もいろんな側面があるはずです。
普段、自分の個性として見られている部分や、その人の個性として見ている部分は、
善い部分やみんながほめたり認めてくれる部分だけを個性と呼んでいますから、個性を伸ばそうということがよく言われていると思います。
でも、誰にでも「ほめられない部分」というものがあって、そういう部分もすべて含めて私たちの人間性はできあがっているのです。
その時の自分の置かれている環境や人間関係のなかで、何を見ようとするか、どのような目で見ているのかという意識を持つことで、どのような自分にもなれる。
それはつまり、私の外側にも、内側にも、善いと思われるものと悪いと思われるものがあるから、私は常に新しく変わっていくことができるということでもあります。
そのような変化のできるキャラクターであるのが、私たちの個性なのだろうと思うのです。
いろんなキャラクターの自分を持つことができれば、自分の意識していないところで周りの人に迷惑をかけてしまうこともあるかもしれません。
でも、誰かに迷惑をかけてしまうということは、私が今、好きなことをして生きているということでもあります。
確かに人に迷惑をかけるのは良くはないことですが、好きなことをやっぱりある程度はしていかないと人生は面白くないものです。
そこは、頭で「正しい・悪い」という区別で理解をすることができなくても、心では受け入れられることなのでしょう。
正しさを主張するよりも、柔軟に自分を変化させる力を意識すること。
自分の考え方と反対のものを受け入れて、学びを得ようとすること。
この地上には、永遠に変わらないものはないのです。
あなたが目にするすべてのものにも、あなた自身にも「たまにはそんなこともあるよ」を当てはめていくこと。
あなたには限界はないのですから。
「自らに完全に正直でいることは、優れた修養となる」
(ジークムント・フロイト)
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