神様を感じる瞬間
見えないものから見えるものが生まれる世界
「あなたは、この世界に偶然生まれてきたのではなくて、あなた自身が選んでこの世界にやってきている」とよく言われます。
その考え方は、いろいろなスピリチュアルの方が発信されていたり、宗教の理念として表されていますが、キリスト教ではこのように表されています。
「さあ、人をわれわれの形として、われわれの似姿に造ろう。
こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、他のすべてのものを支配するようにしよう」
(旧約聖書 創世記1章26節)
キリスト教では、神様は人間をご自身の形として創られたと言われます。
そして、男と女に分けられている私たちは、神様と同じように、肉体についても意志についても自分で選んで行動する自由を与えられていて、
人間とも神様とも交流することのできるようにされている存在であるとされています。
聖書を読み進めていくと、アダムとエバからのすべての子孫は神様との約束をやぶって、神様から離れて生きるようになってしまいます。
そのことを聖書では罪と表されています。
罪という言葉は、ギリシャ語で「ハマルティア」といいますが、その語源は「的はずれ」という意味があるそうで、
つまり、神様から目を離して生きることが的はずれであると説かれているのでしょう。
「神は人を真っすぐな者に造られたが、
人は多くの理屈を探し求めたということだ」
(旧約聖書 伝道者の書7章29節)
という言葉があります。
私たちは、この世界を理解しようとして知識や知能を高めようとしたり、ものごとの仕組みを知りたいと思うものです。
この世界の道理について追求することは良いことです。
でも、神様と同じように創られている自分自身をないがしろにして理屈を求めることは、
自分だけが良ければいいという自己中心的な満足に行き着いてしまうのかもしれません。
この言葉の通りに、私たちが神様によって真っすぐに創られているのなら、
目指すところは自分一人だけの満足ではなくて、自分から広がっていくような愛と栄光と喜びに満たされて生きることなのでしょう。
「およそ神のなしえざるものなし」
(キケロ)
という言葉があります。
神様は誰にも見ることはできませんから、人間が考え出したもの、思い込んでいるものと思われることもあります。
でも、自然の摂理や、人間の身体の神秘や、心が無限であることなどを通して、なんとなくそうではないと知らされます。
この世界のいろいろなことをもっと深く見つめるなら、私たちが生み出すことのできない現象であふれていることにも気づきます。
その時、この世界のいたるところで、見えないものから見えるものが始まっていることを教えられるのです。
そのような視点が、あなたの中に今までと違う何かを見つけさせてくれます。
きっと、それが神様を感じる瞬間なのですから。
「すべて存在するものは神のうちにあり、
神なくしては何ものも存在しえず、また理解もされない」
(ベネディクトゥス・デ・スピノザ)
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