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明るい光を手に持つ人

引き寄せや祈願とはまた異なる、祈りの力

手を合わせて、これから良い方へ向かうように心から願うことをしたことが、誰でもあると思います。

そのように、神様のような存在へ手を合わせて願うことを「祈り」といいます。

それは、私たち人間から神様に向けて、自分の想いを届けようとすること。

神様からの返事はごく少数の人以外には受け取ることはできませんから、私たちは神様の存在を信じることができません。

でも、本当は私たちの誰もが神様と日々、応答しながら生きているのです。

神様からの言葉は文章ではなく、インスピレーション(直感)として表されるものですから、思考を使って受け取ることはできないのです。

ですから、言葉にしようとするほど遠のいていくもの。

ただ感じる「何か」を自分の中で理解するだけでいいのです。

たとえば、人生で起きることのタイミングがばっちりと完璧にはまる瞬間を経験したことがあると思います。

そのようなシンクロニシティを感じる時、私たちは神様に出会っている時なのでしょう。

そのタイミングこそが、神様の力による采配でもあるのでしょう。

自然に祈りを捧げる人

私たちの肯定的な周波数と神様の周波数が合わさるような循環を感じる時、私たちの想像を超えるような出来事に出会うこともあるのです。

そうとらえれば、祈るという行為は現実の世界と見えない世界の真ん中に立つことから始まることなのかもしれません。

思考と感覚、肉体と心、自分と他人。

いろんなものの狭間に自分を置いてみる。

ほんの少しだけ、自分の在り方や考え方を丁寧にしてみたり、繊細にしてみることで、この世界が違って見えてくるはずです。

その時は、あなたが目にして認識している出来事の連続でこの世界が成り立っているという見方から、

その認識の隙間にあるものに気づいてみる見方もできるようになるはずです。

それは、たとえば日常でやり取りをする中の言葉と言葉の間にある余白にフォーカスするということ。

そこに、私たちにとっての大切なものがあると思うのです。

神様へお願い事をする祈りのほかに、神様への感謝をする祈りというものもあります。

食事の前に、手を合わせて口にする「いただきます」「ごちそうさまでした」という言葉もそうです。

私たちの可能性のすべてを理解して、今の私たちに必要なものを与えようとしてくれる神様から与えられるものは「恵み」であるから、感謝をするという応答がふさわしいのでしょう。

そこには、日々自分で選んで行動しながらも、そのすべてが神様の恵みの中にあることを意識しているという他力を感じさせる、清々しい姿がありますから。

だから、祈りを続けることで、私たちの乱れた気持ちもリセットされていくのです。

お試しやつまづきを与えてくださる中で、最後にはゆるしと救いを与えてくださるとわかっていれば、どのようなことも、自分にとっての恵みとして受け取れるようになります。

いろんな問題や困難についても、そこから抜け出すことをただ願うだけではなくて、私だけの貴重な体験として受け止めていいのです。

悲しみや苦しみの感情が薄くなって、その出来事が私の心を成長させてくれた経験に変わる時に、すべてを受け入れた時に、心に感謝がわいてくるのです。

引き寄せや祈願とはまた異なる、祈りが起こす神様の奇跡はあるのです。

私たちが望んでいることが叶うことを奇跡ととらえるのなら、祈りはその実現への手段でもあると思うのです。

「私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。
 神は愛です。
 愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、
 神もその人のうちにとどまっておられます」
 (新約聖書 ヨハネの手紙4章16節)

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