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顔を寄せる恋人達

生命と生命のふれあいが感じさせる、私たち人間のやさしさ

先日、私のヒーリングの新しいメニュー「ご縁結びヒーリング」を受けに来られた方と、

理想のパートナーさんの姿についてお話しをさせていただくなかで、やさしさというものについて考えてみる機会がありました。

お付き合いをしたい人の一番の条件にいつも上位に挙げられる、「やさしい」という言葉。

私たちは、やさしい人や、あたたかいやさしさが好きなのです。

その言葉を日常で当たり前のように使っていますが、やさしさとは目に見えるよりも感じるものですから、定義もあいまいで絶対的な形もないものなのです。

ですから、一人ひとりが自分の想うやさしさを信じているということもあるのでしょう。

だから、やさしさを自分の自我のフィルターを通して見ることもあるのです。

たとえば、目の前の人がやさしいか、やさしくないかを判断する時、その人が私の期待する反応や態度をしてくれたかどうかで決めているかもしれませんから。

その時は、誰かの意見を聞いて参考にすることも、客観的に判断することもなくて、自分の主観や自意識で決めているはずです。

その判断の根底には、人間関係や社会についての自分なりの型のようなものが判断のフィルターとしてあるのです。

つまり、目の前の人はどのような態度で私に接してくるのが望ましいのか、という自分の主観による考え方でとらえているのです。

その型の通りに接してくる人は、やさしい人。

あてはまらない人はやさしくない人。

というふうに私たちは判断しているのです。

「魅力的な人に出会うたびに、礼儀正しさ、謙虚さ、自然ににじみ出る優しさなど、素敵だと思うその人の魅力を取り入れていくことだ」
 (ケーリー・グラント)

という言葉があります。

そうとらえると、日常のいろんなことについてのやさしさに自我が入ってように思えてきます。

もし、自分に都合がよければやさしいと感じて、都合が悪ければやさしくないとするのなら、

やさしさを求めることは利己的な自己満足を求めているイメージも浮かんできます。

でも、逆に、自分に足りないものや自分を満たすものを、自分の中に見つけることのできない私たちが、自分の外にそれを求めているととらえるのなら、

それは私たちを不完な状態で創られた神様の願いの通り、自分の足りないところを他人が満たしてくれるワンネスを感じさせるためのものだと分かります。

人間は、一人では生きてはいけません。

私たちは、自分の外から入ってくるものによって生きていますから。

でも、ただ肉体を維持するためのものを手に入れるだけでは満足ができないはず。

やはり、生命と生命が触れることが大切なことなのです。

話をしながら一緒に食事をすることや、今までの経験やそれぞれの人間感をすり合わせるような会話、身体に触れることもそう。

そのような、同じ人間の生命からの刺激が私たちの感じる普遍のやさしさの姿なのです。

そのやさしさは私たちを励ましたり、幸せを感じさせてくれたりします。

あなたの生命がやさしさそのものです。

私の生命も誰かのやさしさとなれるなら嬉しいです。

「何の思惑もない優しさがこの世界にも、まだたくさんある」
 (小林麻央)

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