客観的に見る視点
メタ認知という見方
私たちは、自分の意見を否定されたり、反対の態度をとられると不快に感じてしまうもの。
そして、そのような反対の意見を持つ人を、自分と意見が合わない人というとらえ方をします。
でも、人間が100人いれば100通りの意見があるという例えがあるように、今まで生きてきた環境から、身につけてきた知識から、経験や人間関係から生み出された考え方や感性は、ひとり一人異なっているのが当たり前です。
もし、今あなたがわかり合うことの難しい関係にある人がいるのなら、表面的な言葉や態度からその人を理解しようとするのではなくて、その人の生きてきた時代や社会や地域も知ろうとしてください。
それが、その人を理解するためのいちばんの方法ですから。

私たちが他者との関係がうまくいかない時は、お互いの中の目に見えないものを疑ったり不安に思う時です。
その見えないものとは、考え方もそう。
だから、言葉や行動などの外に表される表現が自分と違っていても、考え方がだいたい同じなら、私たちはその人を自分に近い人、信じられる人だと思うのです。
そのような心の反応を備えている私たちは、日常のちょっとした出来事や、誰かの言葉を誤解して、惑うこともあるのでしょう。
「我々の心に様々な思いや気持ちが勝手に現れるのはどうしてだろう。
心という実体がないからではないか」
(兼好法師)
という言葉がありますが、ものごとに瞬間的に反応する感情とまた別にある、心という、身体や感情でもない部分は本当は形のないものなのかもしれません。
心持ちという言葉が、人間の態度そのものを示しているようにです。

「人付き合いがうまいというのは、人を許せるということだ」
(ロバート・フロスト)
という言葉があります。
目の前の人のなかに、自分と異なっているところがどれだけあるとしても、それは今までの自分とは異なっているというだけなのです。
それが、本当に自分にとっての壁となるのなら、自分以外のすべての異なっているものが、自分にとって都合の良くないものになってしまうからです。
だから、自分と合わない意見を不安に思うこともありますが、そのことも事実としてそこにあるのではないのです。
その認識は自分の心が作り出していることですから。
それなら、自分と異なっているものに出会った時に、それを今までの自分の知らなかった新しいものだととらえれば、いろんなことを関心をもって接することもできるはず。
今までの見方よりも、もっと多くの価値観に触れることも、多くの学びを得ることもできるとらえ方だと思うのです。
そのような、ちょっと俯瞰した目線で認識や理解をしようとするとらえ方を、最近ではメタ認知と呼ぶそうです。
私たちは、ものごとを自分の知っている範囲で理解しようとしますが、メタ認知の状態では、自分の想定外のものとして接するというイメージなのでしょう。
でもそれは、心をなくして見るのではなくて、自分や他者や、自分以外の人の心をわかってものごとを見るということ。
それが、客観的に見るということの本当の姿であって、今の私たちにとって大切なことなのでしょう。
「性に合わない人たちとつきあってこそ、
うまくやって行くために自制しなければならないし、
それを通して、われわれの心の中にあるいろいろ違った側面が刺激されて、
発展し完成するのであって、
やがて、誰とぶつかってもびくともしないようになるわけだ」
(ゲーテ)
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