愛の生まれるところ
愛とは、人と人の交わりの中で生まれるもの
先日、ヒーリング・除霊のセッションを受けに来られた方と、「人間の価値観と神様の価値観の違い」についてお話しをさせていただきました。
ひとつの物事や出来事について、私たちのとらえ方は瞬間的な見方による利己的な判断をしがちです。
でも、神様のとらえ方は、抽象度の高い、長期的な見方による利他的な判断をされるのでしょう。
それが特に表されるのが、愛の在り方なのでしょう。
愛については、以前にこちらの「愛から始まるもの」のなかでも、お話しをさせていただきましたね。
「私はあなたがたをほんとうに愛しています」
(ヨハネの手紙第二1章1節)
という言葉があります。
愛の定義については、絶対的なものはありません。
日本に初めてキリスト教を伝えた宣教師さんたちは、愛の本質について「大切」として伝えたそうです。
当時は、愛とは肉欲を強くイメージさせるものでしたから、誰かを大切に思う気持ちや、その気持ちから表される言葉や行動が愛であると説かれたのでしょう。
その意味を理解できれば、私たちが日常のなかで人と交わす言葉や関わりのには、たくさんの愛があふれていることも感じられるのです。
ここで表されている愛とは、肉欲や対象を限定する人間的な愛を超えた、対象を必要としない神様の愛に近いものなのでしょう。
それが、「大切」と表される感覚なのかもしれません。
ですから、その感覚がいつも自分の基盤にあれば、自分と違う考えの人に対しても外見も関係なく、だれに対しても愛を示すことができるはずです。
私たちの誰もがこの世界の真理的なものとつながっていますから、誰もがその意識を思い出すことで、人生を喜びの体験の場所とすることができるはずです。
「自分にしてもらいたいと思うことは、ほかの人にもそのようにしなさい」
(マタイによる福音書7章12節)
という言葉があります。
利己的ではない、相手のことを思う利他的な自分の考えをもって、周りに影響を与えていくことはとても素晴らしいことだと思います。
でも、相手の方が今はまだあなたの施しを必要としていない場合もあります。
大切なことは、あなたが相手に「してあげたいこと」と、相手があなたに「してほしいこと」が一致しているかどうか。
自分に都合の悪い状況でも愛を示すことができるか、相手をゆるすことができるか。
それで真価が問われることもありますから。
愛とは、まず相手の存在を喜ぶことから始まります。
人間を創られた神様が人間の存在を喜ばれたように、私たちも目に前にいる人の存在、命を喜ぶという視点。
神様に似せて創られたとされる私たちも、は同じようにできるはず。
それは、ご家族やあなたの大切な人だけではなく、利害関係のある人達にも、あなた自身にも。
だから、愛を意識することは人間に興味を持つことでもあるのです。
「顔を合わせて語りたいと思います。
私たちの喜びが全きものとなるためにです」
(ヨハネの手紙第二1章12節)
という言葉があります。
コロナウイルスの感染防止のために、会いたい人に会えなかったり、実際に顔を合わせてお話しをする機会も減ってきました。
もともと、私たちは言葉によってコミュニケーションをしていますが、人と人が交わるということは、言葉のやり取りだけでなく、相手のしぐさや眼差し、お身体から発する波動も感じながら行われるもの。
そのなかで、自然と表されて伝わっていくのが愛なのでしょう。
愛について、重いイメージを持たれる人もいるかもしれません。
でも、愛とは会話のなかでふと感じられるものと考えれば、そうは思わないはず。
そして、あなたの愛を必要とされる人がいることもわかるはず。
そこに、合って話すことの大切さがあると思うのです。
「間もなくあなたに会いたいと思います。
そして顔を合わせて話し合いましょう」
(ヨハネの手紙第二1章14節)
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