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海を眺める人

本質を見るとは、この世界の真理を見るということ

先日、ヒーリング・除霊のセッションを受けに、福岡市から来られた方と「本質を見る」ということについてお話しをさせていただきました。

本質とは、そのものの本来の姿であって、そのもので在るための条件のこと。

ですから、この世界のすべてのものに本質を見つけることができます。

私たち人間に備わっている本質とは、人間性でしょうか。

お会いする皆さんとお話しをさせていただくなかで、私もいろいろなことにいつも気づかせていただいています。

ありがとうございます。

「存在するもの一切が神である(汎神論)」(バルフ・スピノザ)
という言葉があります。

この言葉が表すように、物質も人間も神であって、ただ、神の現われ方が異なっているだけととらえれば、

それが物事の本質を見るということにつながって、物事の表面だけを見て感情が振り回されることもなくなるはずです。

あなたの耳に聞こえてくる、周りの人達の言葉や目にする出来事は、

それ自体としては、最初はまず何の意味もないことに気づくことができれば、

その言葉を発している人の魂の声を素直に聞き取ることも、

その思わしくない出来事が起きる必要があったことにも理解ができるようになるのです。

自分の幸せについてもそう。

幸せとは、お金で買えるものではなく、見返りとして与えられるものでもなく、どんな人にも無償で与えられるもの。

そして、今の自分を否定せずに、今の自分をそのまま素直に認めることから生まれてくるもの。

だから、悩んでいても、悲しんでいても、自分自身について自分が納得していれば自然に感じられるもの。

自分が幸せかどうかを問いかけている間は、まだあなたの望む幸福には到達できないように、

幸せというイメージが気にならなくなった時、あなたの背中を押す出来事が起こって、それが自然の流れのように見えてくるのです。

仏教に「照見」という言葉があります。

それは、邪な思いや煩悩から離れて、目の前で現される現象や物事の本質を、深く見極めること。

私たちは、テレビやインターネットで目にするニュースに感情を動かされます。

でも、そのニュースに書かれている出来事の裏側にある、その人の本当の姿や本当の気持ちがその通りなのかは分からないのです。

だから、出来事はそのままの出来事として見るとして、あとは刺激的な一部分だけをクローズアップして感情を乱さないこと。

そこで表されている意味や視点は、実際に起きたことの一部分なのかもしれないからです。

本質とは日常生活の背後に隠れていて、姿を現さないものであって、

日常生活を送る私たちの「自然」な目から見れば、「不自然」に映ってしまうものですから。

「世界を解釈することではなく、変革する」(マルクス)
という言葉があります。

私たちは、視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚という自分の五感で感じるものを強く信じてしまいます。

だから、見たものや聞いたものをそのまま信じて判断して生きることに慣れてしまうと、自分以外の他者の価値観で自分の人生をすごしていく可能性があるのです。

でも、なにか危ない、危険だなと感じる感覚を、五感を超えた感覚として、私たちは持っています。

そのような、落ち着いて物事や人の本質を見るという感覚や、怪しいものには近づかないという感覚を警戒心と呼ぶのです。

もし、日々の生活の中で、あなたが周りの空気に流されそうな時は、自分を右でも左でもないフラットな場所に置いて、すべてから離れて眺めてみてください。

これしかないと思っていたことにも、いろいろな意見が出てくると思いますし、また新しい視点を持つことができるはずです。

でも、それは単純に世界の流れやみんなの意見の逆を選ぶということではなく、人や物事の本質を見るということ。

どのような局面にいながらも、感情的にならないということ。

この世界で自分の魂を成長させるということは、軽く判断をして流れに身をまかせることではなく、

自分で選んで、やるべきことを行った上で、流れに身をまかせることですから。

その途中で、私たちの足りないところや弱さを痛いくらいに感じることもあるのかもしれません。

でも、それでも心の豊かさや心の充足や幸せに向かって、少しずつ前に進もうとすること、苦しみながらも前に進もうとする姿が、人間が「生きている」姿だと思うのです。

「細かい説明は省くが、人は見方によって全然違う考えを持つ。
 あらゆる物事には表と裏があり、どちらを伝えるかによって結果が変わる」
 (芥川龍之介「羅生門・鼻」より)

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