見えるものと見えないもの
見えるものと見えないもの、それはあなたの心のとらえ方が感じさせるもの
先日、福岡市からヒーリング・除霊を受けに来られた方と、目に見えないものをどう認識するかということについて、お話しをさせていただきました。
この世界には、見えるものと見えないものがあります。
私たちは、普段の生活で目にしたり、耳で聞いたりすることで感じることができるものを、確実なものとして認識します。
それに対して、この世界には見えないものも存在しています。
例えば、それは波動であったり、神様であったり。
そうとらえれば、見えるものより見えないもののほうがずっと多くて、ずっと大きいものであると分かるのです。
この世界についても、いつから存在しているのか、存在している理由も、本当のところはわかりません。
この世界のあらゆる森羅万象の、無から有が生まれる瞬間というのは、私たちの理解を超えたものだから、私たちにとって「知らない」というのが事実なのでしょう。
「われわれは哲学を学ぶことはできない。哲学することを学べるだけである」(カント)
という言葉があります。
哲学は、学問というより、生きる「態度」が大切であることを表している言葉です。
私たちは、物事について「知っている」と思った瞬間、それ以上を求めようとしなくなります。
大切なことは、この世界のすべてを知ることができないのであっても、それを追い求める姿勢。
だから、私たち人間はいつまでも自分を考えて、他者を考えて、世界を考え続けていくのです。
私たちは永遠に「知らない」ままでもいいのです。
そのことが「信じる」ということにつながる。
信じることは、私たちの人生を複雑にする時もありますが、魂の課題を与えられることもあるのです。
スウェーデンに、1740年ごろから霊界と現実の世界を行き来してきたと主張された、エマヌエル・フォン・スヴェーデンボリさんという方がいました。
その方の著書のなかに、このような一節があります。
「霊たち、それにもまして天使たちは、彼らの視覚すなわち霊の目では、この世に存在する何者をもみることはできない。
彼らにとってこの世の光、あるいは日光は真っ暗闇のようなものだからである。
それと同様に人間も、その視覚、すなわち肉体の目では、あの世の何物をも見ることができない。
人間にとって天界の光、あるいは主のいます天界の光は真っ暗闇同然だからである。
天使や霊たちは、この世の事物をまったく見ることができず、たかだかその人間の思考や感情を知ることができるだけだと私は教えられた」
(エマヌエル・フォン・スヴェーデンボリ「神秘な天体」より)
スヴェーデンボリさんのおっしゃる世界がどこかに存在するとしても、ほとんどの人間の知覚でとらえることはできないのでしょう。
人間の知覚には限界があるからです。
その他にも、この世界には、知覚でとらえることのできない、証明ができないものがたくさんあります。
幽霊や迷信もそう。
だから、私たちは、今まで証明ができないものを、科学によって証明してきたのでしょう。
でも、証明ができないものについても、存在しないとは言えないのです。
例えば、愛。
愛は見えませんが、確かに存在していると、誰もが感じています。
私たちは、知覚だけではなく、感覚でも存在を感じて視ることができるからです。
自分を信じて神さまを信じる世界について、科学ではない限り、最終的には「信じるか、信じないか」という信仰レベルの話に行き着くのかもしれません。
でも、神さまを信じる人には、神さまの存在が信じられる出来事が起こってくるもの。
そして、愛を信じる人は、愛の中で生きることができるのです。
大切なことは、自分をどのような存在であるかを、あなたが自分で決めること。
あなたの心のとらえ方が、
あなたの思うとおりに、
そう感じさせるのです。
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