私たちの担う重荷の意味
誰かの背負う重荷をあなたが担う時、幸福も分かち合うということ
フィラデルフィアというアメリカの街の名前は、ギリシア語の兄弟愛という意味の言葉だそうです。
この言葉の兄弟愛とは、家族としての兄弟という関係だけではなく、
同じ時に生まれ、いろいろな思いを抱きながらも、それを超えてつながり合っている、
大切に想い合う人間関係のことを指しているのでしょう。
お互いの間に尊敬や愛が存在するのなら、そこには人間としての関係も存在します。
今、私たちがいる社会とは、機能や能力を第一とすることが多いのかもしれません。
でも、そのような社会にあって、強いものと弱いもの、健康なものと病気のもの、
その両者の心のつながりを生むもの、それがひとり一人の背負っている重荷なのです。
「互いに重荷を担いなさい」(新約聖書 ガラテヤの信徒への手紙6章2節)
という言葉があります。
人間が持つ重荷と聞くと、身体の不自由や病気がまず思い浮かびます。
でも、そのような、一見、自分には不利益なイメージの重荷を背負うことによって、人間性が変化することがあります。
運命を嘆いたり悲しんだりして、その運命を受け入れるようになる時、
その病気や困難に立ち向かう力を手に入れるだけでなく、以前の健康で幸運だった時より、いい人になっている自分に気づくのです。
重荷とは、自分の身体や外からの影響によるものだけではなく、自分の心の負の部分も含まれていたことに気づくのです。
その時に、初めて重荷は神様からの贈り物だと、神さまに特別に愛された証拠だと思うようになるのです。
つまり、重荷を背負わされた時から、その人は神さまとのつながりができているということ。
愛されているから、私が望むものをすべて与えてくださるのではなく、愛されているから、あらゆるものを与えてくださっていると気づくのです。
何かを信じることや信仰心をもつということは、私たちがこの世で背負っている重荷を必ずしも軽くしてくれるものではなく、その重荷にも意味があることを教えてくれるものです。
文明が発達して、生活も保障されて、目に見える形で豊かさを受けとるようになれば、苦労というものはなくなるのではないかという錯覚が、私たちの中に生まれます。
でも、苦労のない人というのは、人間としてこの世には存在しません。
だから、その苦労というものをなくすことが、人間の理想の一つなのでしょう。
私たちは、それぞれが背負う重荷をお互いに担う時、幸福を分かち合うことができます。
もし、今あなたがご自分の病気や境遇を悲観しているとしても、家族や友人が自分に与えてくれた救いを思い出すと、簡単な答えは出せなくなる。
生きることを強く望む気持ちが、心の奥から湧いてくるはずです。
「ただ一人の人に正しいことをするより、幾千の人たちのことを心配することのほうが楽なのです」(ハンス・カロッサ)
という言葉があります。
たとえ相手が何人いても、思うだけなら簡単にできます。
でも、そのなかの一人でも救うことは簡単なことではないのです。
大切なことは、ただ一人の人に、良心に従う正しいことをすることから始めていくこと。
私たちに与えられている重荷とは、弱い者も強い者も本質は同じだということを表している証明なのです。
私たちが心に留めておくことは、
誰も無視をしない。
弱い者ほど手助けをするという姿勢。
誰であれ、助けることは、神の道に叶っているはずですから。
「幸せを追求する最善の方法は、他の人を助けることだ。
あなたを幸せにするものは他にない」
(ジョージ・ルーカス)
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