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空を見つめる人

神さまと出会う時、それはあなたの覚醒の時

皆さまから開運ツアーの依頼をいただいて、私もご一緒に寺社仏閣へ参拝をさせていただいているのですが、

最近は、参拝をされる方が増えてこられているように思われます。

私たちが参拝をする目的やタイミングとは、御祈願や神さまへの感謝であったり、人生の重要な局面で心身を清められ、必要なエネルギーをいただくために導かれること。

私も皆さんと同じく、こう思いながら足を運んでいます。

見えないものの存在を感じたい。
神さまや神々しい存在のいるところに行きたい。

でも、私たちが意識をしても、意識をしなくても、神さまはあなたを知っているのです。

だから、本当に神さまを見つけたいと思うのなら、まだ見ぬどこかではなく、あなたの中を探すこと。

あなたについて、自分は何者なのか、という自己探求をされてください。

人間は、神さまという存在を知識として理解するのではなく、自分の体験から感じていくものですから。

なので、私たちの言動や経験が成熟する頃になると、自然と神さまのことがわかってくるようになります。

以前の私も、現実的で自我の強い性格が見えない世界をわからなくさせていましたが、アセンション(覚醒)することによって、突然に感じられるようになりました。

神さまは、遠くで私たちを見ているのではなく、すぐ近くにいると気づいた時、人生が変わりました。

恐れや不安から生きるのではなく、愛や分かち合うことから生きることができるようになりました。

昔、ユダヤ人の方々は「神の顔を見た者は死ぬ」と信じていたそうです。

その当時の価値観では、神はその顔さえも、まともにおがむことのできない存在であって、その意志を知ろうとすることは、人間には許されていない行為であったのでしょう。

でも、現代でも私たちは、神の存在を信じることはあっても、神の心を知ろうとしたり、神の力を試そうとしてはいけないのでしょう。

そのような神の前にあってこそ、初めて、すべての人の成す事と存在の価値は全く同じになる。

このような解釈ができれば、価値観も外見も評価も違う様々な人間の価値が全く同じだと説明ができるようになる。

そして、ただただ、生かされていることに感謝をするようになる。

生かされているということについて、それは神や仏のような人知を超えた存在の力によるものだということを、疑いもなく信じることは難しいことです。

でも、こう考えてみてはいかがでしょうか。

私たちが一生懸命に生きようとしても、私たちの心臓が一生懸命に動いているわけではないように、私の力とは関係なく生きるために働いている身体がある。

息をすることのように、私の意識とは必要なく行われているもの。

このように、私の力や意識の働かないところから、私の生きることを支えられていると気づく時、私が私以上のものによって生かされていると気づきます。

その時初めて、私たちは傍らに立つ神と会うことができる。

それを「覚醒」と呼ぶのです。

「神のなされることは、すべて、時にかなって美しい。
 神は、また、人の心に永遠さを植え込まれた」
 (旧約聖書 伝道の書 3章11節)

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