私たちの「違い」について
ヒーリング・除霊を受けに来られた方から、ヒーリングについて「すごいですね」「できることなら私もしてみたいです」というお言葉をいただきます。
ありがとうございます。
でも、私の方から見れば、あなたもそう見えているのですよ。
「私たちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っています」(新約聖書 ローマ人の信徒への手紙12章6節)
という言葉があります。
賜物(たまもの)というのは、霊的・道徳的な能力のことで、神の好意によって恩恵として人間に与えられたもの。
私たちは、自分が人より優れていると思うところがあれば、それは自分の力だと思い込みます。
でも、それらはすべて神からの「借りもの」なのです。

しかも、神が我々に貸し与えてくださった賜物は、それぞれに違うのです。
だから、教える人が知的だとか、施しのできる人がお金持ちだから偉いとか、リーダーシップを持つ人が優秀なのだとかいうことは、人間の側からの判断なのです。
神は、私たちの「役割り」のどれもが、同じように大切であることを知っていたから、ひとり一人に異なった贈り物をされたということなのでしょう。
それに、比較や優劣をつけたのは、その神の意図の分からない人間の判断なのでしょう。
だから、人としっかり向き合い、互いに相手という存在beingを受け入れることが、分かち合うというto doにもつながります。
誰かになろうと思ってもなれない。なれても自分の力ではないと自然に思えるようになれば、それぞれに必要な賜物をいただいていることに気づくはずなのです。

「人間は等しく平等である」という発想がありますが、間違って解釈すると納得いかないものになることがあります。
平等であるということは、才能や成績で評価されることではありません。
でも、同じように学べば、同じようにできるようになるわけでもないのです。
もっと明らかな「運」や「結果」に対してもそうです。
同じような生活を送って、同じような生涯を送ると思っていたのに、向こうはどんどん成功していった。
こんなふうに思う時、私たちはこの社会で運のいい人がいい目に会い、運の悪い人が不幸な目に逢うのはおかしい、人間は才能に左右されず、皆が平等に生きられなければならない、と思ってしまう。
でも、人間は運に支配されている部分が必ずあります。
その土地に生まれたこと、男女のどちらかに生まれたこと、何らかの才能を与えられていること、などは自分の努力でそうなったのではありません。
それは、宿命的なものなのです。
でも、人の能力とは、生まれついて持っているものと、生まれた後の努力で得たものが結びつき、成り立っている。
だから、誰かになろうと思ってもなれない。なれても自分の力ではないと自然に思えるようになれば、誰もがそれぞれに必要な賜物をいただいていることに気づくはずなのです。

才能は努力である程度は伸びますが、それには限度があります。
その先へと進むには、自分の心を自在に使いこなすこと。
その人の言動が、その人自身の力によって素晴らしいのではなく、そのような、素晴らしい言葉を話して行動できる力を神から与えられているからです。
不足は幸せのためのバネになるように、人間には、不足も必要な「心の支え」なのです。
人のことを気にせずに、自分は自分になりきること。
あなたはあなたで生きていくということ。
「あなたに私と同じことはできません。
私にだって、あなたと同じことはできません。
人にはそれぞれの役割があるのです」
(マザー・テレサ)
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